2013年11月17日日曜日

「人が変わらずにはいられない」ことが嬉しく感じられる日に ~この空が飛べたら~

言葉には、「色」がある。

別に私には共感覚といったものはないが、確かにそれはあると思う。

昨日まで使っていた言葉が、今日になったら突然全く違う字面に見えることがある。しかもよく照合してみると、それは驚くべきことに、全く同じ単語だったりするのだ。
その言葉を心で読んでみた時に、その響きは昨日と全く違って感じられ、昨日のメモや、Twitterに何気なしに投稿したツイートと合わせてみた時に、初めてそれが同じ単語だと認識する体験。

昔、宮藤官九郎によってリファインされた「ゼブラーマン」に、「空はなぜ青いのか」という問いが存在した。子どもたちはこれを、大人を判定するための「大人テスト」として主人公に投げかけるわけだが、2回目、この問を受けた時に、主人公は、「空は毎日その色を変える」…といったことを返答したと記憶している。

世界はその色を、毎日毎日変えていく。そしてそれは、自分が変わっていることと同義である。何故なら、世界を変わったと認識するのは自分自身に他ならないのであり、世界が本当に変わろうが変わっていなかろうが、そんなことはもはや関係ない(と、ここではあえて言い切りたい)のだ。



最近、とある歌い手の動画を見たことがきっかけで、「この空を飛べたら」という、中島みゆきさんの曲を知った。調べてみれば、昔のヒット曲であり、随分有名な歌であったみたいだが、恥ずかしながら私は知らなかった。そして、今まで知らなかったことを心底残念に思った。

「ああ 人は 昔々 鳥だったのかもしれないね こんなにも こんなにも 空が恋しい」
この歌詞を聞いて、不覚にも涙が止まらなかった。かつて当たり前だったことが今は永遠にかなわないことを歌っているのか、他にも色々な解釈を許してくれそうなこの表現だが、しかし、心の中核の部分を直接的に刺激してくる、日本語の美しさをこれでもかと見せつけてくれるような歌詞だと思った。

空を歌った歌は魅力的だ。人は空に何を思うのだろう。
翼を持たない私達に許されるのは、基本的に、前後左右の平面的な移動のみである。にもかかわらず、私達はものの優越を「上下」で換算するのだ。青天井に広がる大空は、私達が夢見ることを許された楽園なのかもしれない。そこに、「成層圏」やら「宇宙」といった現実的な解釈は、相当に野暮であると言ってもいいだろう。


空はその人の心を映す、という言葉も最早使い古されている感がある。

ともあれ、私は今、そんな移ろいゆく空の変化が魅力的でしょうがない心理状態なのだ。

人は変わり、そしてどこへ向かっていくのか。
昨日の心理状態の私なら、それは死と孤独に他ならないと答えたはずだ。
今の自分はどうだろうか。少なくとも、「終着点を起点に考察することはあまりよろしいことではない」と感じるだろう。

言葉には色がある。全てのものには翼がある。一つ一つのモノに、自分という主体が魂を吹き込むのだ。
そうして、世界は踊る。空はその色を変える。それを変えるのは、変わってしまった私そのものだ。


常に変わり流転していくこの世界は色とりどりで美しい。キラキラキラキラ輝いて、私を高揚させる。

高揚しているのは、私自身だ。
この世界は、なんとくだらないんだろう。
しばし飛び跳ねた後、私はやはり、これらが低俗なネオンサインの輝きと遜色ないことに改めて気付き、日常の灰色を望むのだ。

2013年11月15日金曜日

「人が変わらずにはいられない」ことが寂しくてしょうがない夜に

人は有機的な物体であるから、その一瞬でさえ、同一な瞬間はない。
人が「変わらない」ことは、それを見る側の感受性によってそう感じられているわけで、「変わらない」なんてことは、物理的にありえないはずなのだ…肉体的にも、精神的にも。

今日はそのことをことさら強調して主張する気はなくて、では言いたいことは何かというと、そういったことがひどく物悲しく感じる時――私にとってそれは今だったりするわけだが――は、一体どういう時なのかを考えたいと思っているのだ。

人は変わっていく。人の変容は、恐らく色々な要素が絡み合って、それこそグラフに表せば、その変化を克明に記録するための指標は、10あっても100あっても足りないはずだし、それを端的に、こう変わった、と表現することは、すごく難しい行為であるはずなのだ。

でも、結局、感情の面で、それは結局のところ、「良く変わった」か、「悪く変わった」かの、一次元的な指標に落とし込まれる気がする。
そして、一度成人を迎えてしまうと、自然と「よく変わる」ことはとても難しいことのような気がする。

私は友人をつくることがとても苦手だ。人と会話をすることが不得手な性格は、昔からずっと「変わらない」。
そのおかげで、今まさに、私は世界の中でひとり残されたような孤独感を味わっている。

仕事に行けば、また戦いが始まるのだ。あそこにあるのは、利害や立場によって味方と敵がめまぐるしく変わっていく、液状化した大地だし、その敵の多くは伴侶や子供がいたりして、戦うために必要な支えを持っていたりする。私にはそれがない。それがあったことがない。

「変わる」ことは、私にとって、孤独になっていくことのような気がする。自分の周りの全てが風化して、真っ白になっていくような気がする。そして、私以外の人間は、それぞれの居場所をどんどん見つけていく。私だけが、ボロボロの発泡スチロールのように、擦り切れながら、強風に煽られ宙に舞っているような気がする。

私は、自分の言動、思いが人にとって否定的に捉えられないかどうか、常に怯えている必要性を抱えている。
それはきっと、私が抱えている孤独の、かなり的確な表現だ。


何故、こんなことになってしまったのかは、私自身には到底わからない。いや、本当は気づいているのかもしれないが、私にとってそれに気づくことは、精神的に耐えられる負荷ではない。


どうして人は変わってしまうのだろう、は、いつまで、このような、世界から取り残されたような感情を抱き続けるのだろう、に直接的に置き換えることができる。この耐え難い孤独感から逃げるために、人は群れようとするのだろうか。残念ながら、私には群れるための技術も要領もない。私は淘汰されるのだろうか。


社会性を身につけなければならない。ニュースや天気にもっと気を配らなければならないのだ。有り体な表現だが、私の心には、ぽっかり穴が開いている。誰かに、薪をくべにきて欲しいと切に願っている。だが、願うだけでは何も変わろうはずもない。それは甘えだ。


人生に光を待っている。その光が人間関係であることは認めたくない。
かくして、私はまた孤独を噛みしめることになるのかもしれない。それもしょうがないことなのかもしれない。

2013年11月9日土曜日

iPad Air 購入3日目の感想と雑記



・まずはじめに

私にとって、このiPadAirが初めてのタブレットです。
iPadAirに特化したレビューというよりも、タブレット全般の使用例としての理解のほうが、適当な場合も多いかと思いますので、ご了承ください。


自分がiPad購入に踏み切ったのは、主にEvernoteと電子書籍、あとニュースの閲覧をするために、これが有効なツールだと判断したからです。
あと、タッチペンを購入することで、趣味であるイラストのアイデアを素早くスケッチし、Penultimateを用いてEvernoteにスタックする使い方も考えていました。

全世代のiPadと、iPadminiを見たときに、私は、自分が使うにあたって、これが実用に耐えられる代物ではないと感じました。iPad Retinaディスプレイは、その重さに耐えきれないと感じました。その点、iPadminiは理想的な軽さでしたが、普段iPhone4Sを使用している身としては、Retinaではない、通常のディスプレイを至近距離から見ることは耐えられませんでした。また、ディスプレイの両端の、広いベゼルも不満でした。私は、iPadminiの重さのiPadがリリースされることを望みました。

次世代のiPadの噂を私は収集しました。すると、新しいiPadは、薄く、かつ軽くなるとのことでした。私は、新しいiPadがリリースされるまで、購入を我慢する必要があると思いました。

そして、iPadAirの情報が公開され、私はこれこそ、私が待ち望んでいたものだと思いました。特に現物も確かめずにウェブサイトから注文しました。私には、この買い物が失敗にはならないという確信がありました。


届いたiPadは、私が望んだとおりの品物でした。薄く、かつ、iPadminiに肉薄するほど軽い。私は取り付かれたようにiPadAirを操作し、自分が望むように設定をしていきました。

そして、iPadが届いてから3日経ち、私は、現在の感想を以下のように持ちました。

・「読む」ためのツール

私は、PC関係の製品を購入するときは、その物が、自分の生活の中で描かれる理想的なコンセプトのうち、どういったパートを担当させるのかを考えた結果、購入に至ることが多いです。私は、iPadを、「読む」ことと「メモする」こと(これはスタイラスペンと併せて使うことを想定しているため)に使用するつもりでしたが、iPadは、「メモする」こと…つまり、「入力」にはそれほど向かないツールだと感じました。
私の予想以上に、Penultimateへの入力は不便で、また、画面上のキーボードでの入力についても、(これは慣れの問題も大きいかと思いますが)思いのほかストレスを感じることが多かったです。これは、iPadをノートそのものにしてしまおうと考えていた私にとって誤算でした。

しかし、こと「読む」ことに関しては、iPadほど適したツールはないと感じました。これは、雑誌や新聞等の紙媒体を含めての感想です。Evernoteのカードビューや、SmartnewsやFlipboardの雑誌風のUIは、あらゆる記事を、数段興味深く、私に感じさせました。高細度のRetinaディスプレイと美しいフォントは、ただの言語の表示であるにもかかわらず、表示だけで私の気分を高揚させました。

また、iPadだけで全てが完結するため、膨大な情報を目にしても、決して持ち物がかさばることがないということは、デジタルの当然の利点でありながら、改めてその有益さを感じさせる魅力を持っていました。


・「書く」ことはPC、もしくはアナログとカメラで

私はこの文章を、MacbookAirで書いています。やはり、「入力」することが予期される場合、iPadを持ち出すよりも、ノートPCを持ち出した方が遥かに有益です。

そして、アイデアをひたすら殴り書きするような、端的に言えば、構想を練る段階に今自分がいるとき、やはり適しているのは、紙のノートとペンを持ち出すことだと思いました。幸い、iPhoneやiPadには、高精度のカメラがついています。そして、Evernoteには、文書をカメラで取り込むためのモードが用意されています。また、Skitchを使って、簡単に注釈をつけることもできます。

最近はEvernoteと連携することを目的とした専用のノートやポストイットが発売されています。私はこれらに興味を持っていますが、自分が簡単なスケッチやメモ書きをEvernoteにまとめ、最終的にiPadで振り返るにあたって、これらのツールは必要ないのではないかと思っています。それほど、iPadAirを「読む」ことについては高性能なツールだと評価しているのです。



・終わりに

私はiPadAirを購入したことで、紙のノートブックは無用の長物になると予期していましたが、やはりまだまだ、紙とペンは有力なツールであると再認識しました。
しかし、入力において、PCや、紙とペンを超えたとき、iPadは更なるステージ、何かまだ画期的な、全くの別ものに進化するのではないかと思いました。

私にとってiPadの購入は決して安い物ではありませんでしたが、そのことを後悔することは恐らくないだろうと思います。私の生活は、新時代のツールによってまたひとつ変化し、そのことについて純粋な喜びを感じます。

2013年11月8日金曜日

Blogの方針転換について

どうもこんにちは。

当ブログは、今日をもって、「ふみまるは両足で歩きます」にタイトル変更し、いろいろな日々のことを書き連ねる趣旨に方針を転換しようと思います。

そもそもは、B'zの感想を随時書いて、それにイラストをたまにつけられたらなーと思ったのですが、まあ有り体に言うと挫折をした形になって、また、私自身が、どこかで思いを文章にして発散する場が欲しいなと思っていたところもあり、方針転換を決意したわけです。

方針転換の主な理由は、Google+との連携機能を知ったことでした。
なにがしか、世間に向けて自分の文章を発表したい欲求にかられた時に、自分にはそういう場が設けられていないことに気づきました。そして、自分にそういう場が必要であることを、私は定期的に自覚します。

Google+は面白く、かつ優れたSNSだと思っています。
私は、かつてないほど(といっても、今までが、そこまで反応があったわけではないですが)、自分がネット上に投稿したイラストについて、反応を得ることができました。これはなかなか衝撃的であり、また、自分には、イラストに対する反応が必要であったことを知りました。

私は何が人より優れている訳でなく、また、実際にそのことは、私の今の社会的な立場に現れていますが、私は何かを表現し発表しなければ気持ちが落ち着かない性癖を抱えています。私の中には、未だ私にも判別できない、黒い蛇のような何かがいます。私は、常にこの蛇と暮らし、時にこの蛇が暴れだしたときは、どうしようもない苦痛を覚えます。なぜなら、私は、そこそこ長い人生を生きてきた今でさえ、この蛇が一体何を望んでいるかを全く理解できていないからです。

このBlogが、私の欲求を満たす、一つの手段となることを願います。

それでは、これからどうぞ、よろしくお願いします。