言葉には、「色」がある。
別に私には共感覚といったものはないが、確かにそれはあると思う。
昨日まで使っていた言葉が、今日になったら突然全く違う字面に見えることがある。しかもよく照合してみると、それは驚くべきことに、全く同じ単語だったりするのだ。
その言葉を心で読んでみた時に、その響きは昨日と全く違って感じられ、昨日のメモや、Twitterに何気なしに投稿したツイートと合わせてみた時に、初めてそれが同じ単語だと認識する体験。
昔、宮藤官九郎によってリファインされた「ゼブラーマン」に、「空はなぜ青いのか」という問いが存在した。子どもたちはこれを、大人を判定するための「大人テスト」として主人公に投げかけるわけだが、2回目、この問を受けた時に、主人公は、「空は毎日その色を変える」…といったことを返答したと記憶している。
世界はその色を、毎日毎日変えていく。そしてそれは、自分が変わっていることと同義である。何故なら、世界を変わったと認識するのは自分自身に他ならないのであり、世界が本当に変わろうが変わっていなかろうが、そんなことはもはや関係ない(と、ここではあえて言い切りたい)のだ。
最近、とある歌い手の動画を見たことがきっかけで、「この空を飛べたら」という、中島みゆきさんの曲を知った。調べてみれば、昔のヒット曲であり、随分有名な歌であったみたいだが、恥ずかしながら私は知らなかった。そして、今まで知らなかったことを心底残念に思った。
「ああ 人は 昔々 鳥だったのかもしれないね こんなにも こんなにも 空が恋しい」
この歌詞を聞いて、不覚にも涙が止まらなかった。かつて当たり前だったことが今は永遠にかなわないことを歌っているのか、他にも色々な解釈を許してくれそうなこの表現だが、しかし、心の中核の部分を直接的に刺激してくる、日本語の美しさをこれでもかと見せつけてくれるような歌詞だと思った。
空を歌った歌は魅力的だ。人は空に何を思うのだろう。
翼を持たない私達に許されるのは、基本的に、前後左右の平面的な移動のみである。にもかかわらず、私達はものの優越を「上下」で換算するのだ。青天井に広がる大空は、私達が夢見ることを許された楽園なのかもしれない。そこに、「成層圏」やら「宇宙」といった現実的な解釈は、相当に野暮であると言ってもいいだろう。
空はその人の心を映す、という言葉も最早使い古されている感がある。
ともあれ、私は今、そんな移ろいゆく空の変化が魅力的でしょうがない心理状態なのだ。
人は変わり、そしてどこへ向かっていくのか。
昨日の心理状態の私なら、それは死と孤独に他ならないと答えたはずだ。
今の自分はどうだろうか。少なくとも、「終着点を起点に考察することはあまりよろしいことではない」と感じるだろう。
言葉には色がある。全てのものには翼がある。一つ一つのモノに、自分という主体が魂を吹き込むのだ。
そうして、世界は踊る。空はその色を変える。それを変えるのは、変わってしまった私そのものだ。
常に変わり流転していくこの世界は色とりどりで美しい。キラキラキラキラ輝いて、私を高揚させる。
高揚しているのは、私自身だ。
この世界は、なんとくだらないんだろう。
しばし飛び跳ねた後、私はやはり、これらが低俗なネオンサインの輝きと遜色ないことに改めて気付き、日常の灰色を望むのだ。