2014年1月29日水曜日

死にたい夜に

何をやってもうまく行かないときってのは、やっぱりあると思う。
そして、意味もなく消えてしまいたい、しかし胸は妙にうずく、そんな時もあると思う。
というか今がそれである。

こういう時、割と私はよく経験する。そして経験上、もう少し言わせてもらうのであれば、この状態の直接的な原因は、大抵寝不足である。
非常にざっくり極まりない考察だが、経験上、私は結局のところ、これにつきると思っている。

まあそれが頭でわかっていれば、じゃあ早く寝ろよという話だが、それもそううまく行かないのがこの状態の厄介なところで、割とエネルギー自体はそれなりに湧いてくるのである。だから、何だか色々とやってみたりする。しかし、注意力が散漫であり、結構イライラしたりもしたりしてるので、大抵のことはうまくいかない。うまくいかないと更にイライラする。イライラを解消しようとして何か別のことをしようとする。そしてそれもうまくいかない。うまくいった試しがない。泥沼である。

私は、そんな気持ちをBlogに書き、記録してみることにした。

何もかもがうまくいかない。思えば私の人生はそんなことばかりだったし、きっとこれからもそうだ。私には、決定的に、何か熱いものが足りない。どこか冷めている。そんな自分を哀れに思い、悲しんでいる。こう書くと何だか、いわゆる中二病を引きずっているようにも見えるが、実際引きずっているんだと思う。私には、この世界を本当に愛するきっかけがまだ訪れていない。

何かを、常に憎んでいるような気がする。それはこの世界だったり、自分だったり、他人をけしかける何かだったり、いろいろだが、常にむなしさを抱えているような気はする。

ただひたすらに、むなしさを抱えている。この先に何があるのか、正直もうどうでもよくなる。灰色の世界が、白い光の中に粉となって霧散していく。

何かにずっと縛られている。もうそろそろ解放して欲しい。自分は大空に飛び立てるとまだ思っている。そんなはずはない。鎖が、逆説的に自分の明るい未来を、今あるべきものとして感じさせてくれる。永遠に封印された明るい未来を。私は鎖を憎む。あるはずのない鎖を憎む。

きっとこの先に何もありはしないのだ。種火のようにぽっ、ぽっと時折発生する、何かを期待させる無責任な幻、それに私の瞳はチラチラ、チラチラと惑わされて、本質を見失っていく。ありもしない本質を見失っていく。

結局は、魂が熱く燃えるかどうかだ。そんな気もする。ぐっすり寝て、魂が回復したら、全てがうまくいくさ。なんて空しいんだろう。本質から遠ざかっていく。核となる幸せはどこだ。

今この心境だから見えるものがある。圧倒的な虚無と、自分の心が身体のどこにあるか、知らしめてくれる痛覚がある。心が痛んで、そのとき初めて、自分の心の位置がわかる。心とは、身体のどこかに、やはり物理的に存在するのか。

思ったことを口に出来ない。自分の口べたさ、社会的な誓約、気恥ずかしさ、自分ルール、そのようなあまたの要素が、私が思ったこと、口にすることに適当/不適当の判定を下し、私の心と魂を圧迫する。

全てに意味なんてない。意味はきっと魂の炎が決める。意味なんてない。魂はどこか別の次元に存在する。常に空虚だ。

眠い。全ての苦痛が、「眠気」に収斂していったとき、私は初めて安心できる。ようやく眠れるんだと。罪はきっと終わったのだ。罰は終わったのだ。

うまく行かない。何もかもがうまくいかない。私の人生は、こんなんじゃなかった。私が私に課した数多の試練は、今この状態のために用意されたものではなかった。

ひたすらに寂しい。私は世界から取り残された。心は切り離された。世界は、私を拒否した。

光。光が欲しい。光と温もりが。

思い切り泣きたい。残念なことに、私は泣くほど悲しくない。これがたまらなく悲しい。真綿で首をじわじわ締め付けられている。

この世は、残酷なまでに平坦なのに、一歩道を外れたら、そこには奈落が存在している。実際は存在していないのかもしれない。奈落は、臆病な私が想像した幻かもしれない。

不甲斐ない。私には何もできない。何も、何も出来ない。

死にたい。でも死ぬのは怖い。生きたくない。私は生きたくないんだ。

2014年1月27日月曜日

GE2漫画描くぞプロジェクト・2週目〜イラスト専が漫画に挑むよ〜

とりあえず、5ページ目が途中の段階まで進めた。
以前の記事にあげた、全体計画からは遅れているものの、これは1週目に生じた遅れであり、取り返せはしていないものの、今週分に関しては、確実にノルマ分を消化したと言える。

漫画を書く感覚自体も、反復とともに徐々に変わってきているように感じる。具体的には、早く描くことに慣れた。それから、イメージをそのまま落としこむ感覚が鮮明になってきた。イラストとは違うトレーニングが脳内で行われている感覚がある。
正直、1週間3ページのノルマは現時点ではきついが、慣れと能力の向上により、これから作業の時間が短縮されることを想定すると、我ながら良い目標設定だと感じたりもする。


さて、今回も、作画の中で感じたことを下に列挙する。


・線をどの程度綺麗に書くか
これはイラストでも感じたことだが、何も全てをベクターレベルにきれいな線で描く必要はないということだ。
もちろん、線は綺麗に越したことはないが、縮小されて見えないようなところまで、線を綺麗に処理しようとすることは時間の無駄である。
自分の作画を踏まえて、自分の家にあった、市販されている単行本を眺めたが、結構線は荒い人もいた。まあ、だからといって自分が荒くてもいいよと思うわけではなく(実際は荒い人は一部であり、またこれも丁寧に処理をしようとした結果だろうし)、有り体な話になるが、「注視度」によって丁寧さのレベルを変えていくことが求められるのだろうな、と。つまり、よく見られる顔アップの表情なんかは丁寧さをよく意識し、遠景の背景なんかは、そこまで整っている必要はない、みたいな…。といっても、まつ毛なんかは、私はそれなりに荒れていたほうがそれっぽさが出ると思っているし、実際にそれにもとづいて描いている。まあこれについては、もしかしたらかなり感覚的な話として理解したほうが適当なのかもしれないが、ザクっと結論付けるのならば、線を意識的に荒れさせたり整えさせる力も一部では必要になるのだろうという話である(エネルギー効率としても、作画そのもののレベルアップのためにも)。


・漫画の喜びは、「ひとつひとつの完成が早い」こと。そのたびに喜びがある
今回、漫画を描いていて、「漫画は描けるけど一枚絵は苦手」という人の気持ちが何となくわかるような気がした。
漫画は、(もちろん全体としての完成はイラストよりも遅いが)「完成」が、かなり短いスパンで何回も生じることになる。これはひとつの喜びの形だ。何よりいろんなものを描けるし、それを短いスパンで次々に完成させていくのだから、これはなかなか気持ちのいい体験だ。
イラストはひとつのオブジェクトを仕上げるのにかなりの時間がかかる。これは絵柄にも寄るものなのかもしれないが、その絵自体がカラーで、かつ長時間注視されることを想定している以上、それなりの描き込みと精度が要求されるのであって、ある意味「我慢の時期」は長い。
とはいえ、私はこの描き込みの作業が割りと好きなので、推測するのみになってしまうのだが…。だが、白黒という特性上、描き込みにある程度の限界があり、その限界まで達する時間がカラーイラストに比べて短いのは幸か不幸かそれなりに喜びではある。


・セリフを間違えて枠の大きさを修正しなければならなかったことがあった
これは反省点になるのだが、2ページ目の作画中、セリフの埋め込みを予定する位置を取り違えており、セリフで埋まるべきスペースの想定が大きく狂うことになった。これにより、描き込んだ位置がセリフで隠れることになり、セリフに隠れるはずだったスペースが大きく白日にさらされることになり、大幅なタイムロスとモチベーションの低下を招いた。
このことの反省として、確実に、最初のラフの段階で文字を埋め込み、セリフ枠を確定させてしまうことが望まれると感じた。


・パースラインをどのタイミングで引くか
恐らく立体的な絵を描くのに、パースという概念は切っても切り離せないものがあり、特に漫画の背景作画において、このことは無視できない要素だと思う。私は、イラストを描くことについてより、このパースラインをどの時点で引くか、そしてどこまでこれに忠実にラインを引くかについてずっと考えてきた。

まず第一に、創造性の問題がある。これは私だけの問題かもしれないが、パースラインが引いてあると、そこから背景をイメージすることがどうしても、私にはできなかった。そして、パースラインをある程度考えずに描いたラフは、大抵パースラインに当てはめるとむちゃくちゃに破綻していたりして、私は何度も背景のラフを書きなおした。これを、ただでさえ時間のかかる漫画作画で再現したくはなかった。

まず私が考えたのは、もうあえて考えないということだった。というか、イラストはこれで結構やったりしていた。左右反転してそれなりに見える誤差であればそれでよしとし(人物をパースラインにあわせてまで描いている人はあまり見たことがない)、あとは描き込みで説得力を持たせることにした。私が思うに、パースラインからの誤差が、その作画のリアリティに大きく関わってくることは、あまりにひどい誤差でない限り、ない。それよりもテクスチャーやその他の質感表現によってリアリティは形成されるものであって、パースラインに対して適合しているかしていないかは、ある程度無視してもいいような気がしていた。むしろそれによって創造性の翼がもがれることが問題だと感じていた。

また、私は今回、背景の多くをExcelを使用して描画しているため、全体としてはずれていても、その要素ひとつとしては、ラインがずれることはないのである。前回書いた「全体よりも部分」の理論に基づいて、私は、Excelが産んでくれる、この「部分としての整合性」のみで、漫画では足りると判断した、のが1回目。

その後、私は少し考えなおした。ふっと、建物を描くにあたり、その構造がどうなっているかが気になったからだ。
そして適当に検索した結果、以下のページを見つけた。
このpdfが、全てを解決してくれた(このpdfは、普通にgoogleで検索したら、候補内にヒットしたものだ)。パースラインは、(建物については)全体のざっくりとした形状、直方体に近い形に対して引かれるべきなのだ。
思えば、私は建物がどのようにできあがっているか、上のファイルを見るまでは知らなかった。しかし、これで、私は建物が出来上がるまでの、「理論的な過程」を知ることができた。それは建物というものを単純化して考える上で、どこを「基点」とすればいいかの最適解を知ることができるものであったし、これから資料として見る建物を「理解」する上での、理論的なとっかかりになるものだ。言葉で表現することは難しいが、とりあえず柱が存在して、そこから梁が出現し、壁と発展していくのだ。本当に言葉で説明することが難しいが、この要素が、私に、建物というものの「内部からの理解」を可能にしたのである。

また、建物を背景として描画する上で、「接地面」がある場合は、それが見えない場合よりも、より高度に整合性が求められるような気がした。
なんというか、地面が見えなければ、割りと適当に描いてもそれっぽくなるような気がするが、地面とつながっているところも描画しないといけないとなると、整合性について真面目に考えないと違和感が生じるように感じたのだ。
でも、このことは、人物だけのイラストでも同じようなもんだと思った。二人以上同じ画面に配置しても、足が切れている構図では、地面との整合性はあまり気にならないが、地面まで晒される画面だと、そのあたりの調整に手間取るし、実際にプロの描いたものでも、地面まで描かれると説明がつくのか怪しいものもたまに見たりする。

また、ドア付近のイメージが、自分は乏しいなと感じた。割りと二階以降についてはパッと頭に浮かぶのだが、1階目が思いつかずにネットを徘徊することが、そういえば昔から多かった。ついでとばかりに、さきほどの「理解」を踏まえ、ビル等建物の1階についていろいろと資料を漁った。
結果、1階部分というのは、それなりに2階以上とは差別化されている(骨格から)場合が多いと感じた。また、装飾に関しても、人を招き入れるための工夫が凝らされている。それも当然であり、1階部分というのは、通常一人の人間の視野からしたら、100%目にはいる部分であり、逆に、2階以降の外側というものは、遠景等でないと、なかなかちゃんと見る機会はない。1階は2階以降と区別して考えられるべきなのだ。

また、頻出する「扉」の構造についてだが、まあこれも言ってしまえば当たり前のことだが、柱と梁に囲まれた壁の中に、更に扉を配置するために設けられた穴というか空洞が存在するわけであって、その空洞の周りには、支えである柱のようなものが存在しているはずである。当たり前ではあるが、このことを意識することで、説得力のある扉が、単純な線であっても、描けるような気がした。


・段取りは、ざっくりしたラフ、セリフの配置、枠線の配置、詳細なラフ、ペン入れ、トーンの順
上で書いたミスの話に関わってくるかと思うが、最初にセリフの枠については確実に確定させるべきだ。
そして更に、「詳細なラフ」の段階では、いや、最初のラフの段階から、人物と背景は同時にイメージし、描かれるべきだ。人物と背景、全てをひとつの空間としてイメージすることで、パース作業をある程度(常識的に)スポイルしている部分を、それなりに補うことができるのではないだろうか。

なお余談だが、既にパースにおいて、大きく破綻したと気づいたコマが結構ある……が、修正は特にしないことにしている。
コマの構図の時点で脳内で適応される「パース感」というものは、恐らくかなり感覚的なものであり、またそうあるべきであり、よって、それは経験的に取得する能力でしかない、つまり覆しようのない実力の反映にしかならないと感じたからである。これは恐らく、イラストを描く場合と同じである。イメージそのものである構図の決定について、計算的な要素であるパース感が影響する道筋を、脳内レベルでそれらの要素が結合している以外に、私には想像することができなかった。


・ラフは何段にするべきか
これについては、イラストのときからそれなりに体系化しようと思ってはいた要素だったが、漫画については、2段が望ましいと私の中で結論がついた。ただしこれは、ヌードデッサンを描かない場合であり、難しいポーズなど、ヌードデッサンが必要になる場合は、合計3段になる。なお、ラフの最終段は、常に、引かれる線が大体確定している状態になっているべきである。


・ベタ塗り
ベタ塗りを効果的に使うことは重要だと感じた。下手くそを露呈するが、なんだか描きにくいなと思ったところがベタ塗りをすべきところであった場合、結構ラッキーである。
また、あまり背景にベタを多用すると、見づらくなるような気がする。ベタは画面を重厚にするが、同時にコントラストを大きく上げ、記号的な絵面から絵画的な絵面へ移行させ、視認性を悪くする要素も持ち合わせていると感じた。

・線だけだと情報が錯綜する
トーンによって、現在引かれている線を、読む人の脳内でカテゴライズする作業を助けることは、視認性を大きく上げる。トーンは重要だと感じた。
また、これはまた下手くそを露呈する物言いだが、それなりに線を積み重ねると、それなりにうまく見えるような気がする。
また、とりあえず、背景等、ストーリーに絡まないオブジェクトについては、トーンやベタなどをあまり使用せず、「単に何かがあることを示す線の集合」の位置にとどめておこうと思った。しかし、プロの漫画を見ると、背景等には重厚にトーンやベタが貼られ、人物の記号的な表現に対して、どちらかというとリアル路線の表現がされていることが気にかかるので、これは描いていく中でまたどのようにするか考えようと思う。


・甘いモノがほしくなる
私はあまり間食をしないタイプで、また甘いモノがあまり得意ではないのだが、漫画を描き始めてから、無性に甘いモノを口にするようになった。慣れないことをしているからか、それとも漫画の作画がそもそもこれだけのエネルギーを要求するものなのかはわからないが、ともかく漫画を描くことは、私にとって大きなエネルギーを必要とするものなのだということを再確認した。



以上である。また来週もこの調子で行きたい。

2014年1月20日月曜日

GE2漫画描くぞプロジェクト・1週目〜イラスト専が漫画に挑むよ〜

漫画を書いている。

表題にもあるように、GE2の同人漫画(非エロ)である。
今度の夏コミで出すことを目標にしている。

こんなブログを書くことを思い立った理由を最初から説明すると、まず私は、趣味でイラストを描いており、その原点は、まあ何かを創作して発表することが好きだ、というところからきている。
そのイラストが、最近はどうも行き詰まって来て、何故だろうと自己分析したところ、やっぱり自分は文字ベースで、何かを認識し、思考し、外に出すことによって喜びを感じるタイプなんだなあと気づいたからだ。このブログなんて最たるものだ。というか、このブログは別に、自分に何か目標を課したりしてるわけでもないのに、それなりに細々と続いているあたり、やっぱりそれは正しいんじゃないかと思うのである。こんだけアホみたいに長文が多いのも、別に自分に縛りを入れているわけでもなくて、書き始めるとそれくらいの分量に自然となっていくのであって、まあどちらかというと、もっと平易に簡潔に書いた方が読む側には喜ばれるんだろうが、同時にそれも私にとっては難しいのである。

漫画は、元々書いてみたかった。だが、イラストから入った私にとって、漫画は未知の領域だった。そもそも、イラストはキャラ1体でも十分に完結する表現手段であって、そのくせ1枚描くのに6〜8時間くらい(キャラ1体がポーズをとっている一般的な萌えイラストであってもだ)かかってしまう。漫画は、その点、キャラが一言「あ」とでも喋ろうものなら、前述の認識を踏まえれば、その「あ」というセリフを表現するために、6〜8時間もの作業時間を求められるわけであって、そうなってくると、そのセリフの応酬とキャラの躍動をもってしてひとつの何かを表現しようなどと考えると、もうわけがわからないのである。というか、正直、6〜8時間もあれば、私であれば、それなりの規模の小説を1本書いてしまうことができる。

それなりに効率性を求める必要がどうしてもあると感じた。趣味に効率性を求めだすともうそれは別の何かであるような気がしたが、私という人間が通常に装備しているモチベーションと作業時間、そして最低限何かを表現するために必要な物語のスパンを考えると、そもそも1本の漫画を完結させるためにそれなりの効率性の探求は求められると思う。どのように簡略化するか(実際の作業も、そして思考レベルについても)。そしてもっと重要なのは、どのように段取りをして作業を進めるか。これを私は、実はずっと考えて来た。


そして、あくまで机上レベルでだが、それはついに私の中で、実際に漫画を描くことができるという結論に達するまでに煮詰まった。私は、私には漫画がかけると認識したのである。


ここに、計画表がある。

日付 ノルマページ数
1月19日 2
1月26日 5
2月2日 8
2月9日 11
2月16日 14
2月23日 17
3月2日 20
3月9日 23
3月16日 26
3月23日 29
1週間3ページのノルマを設定した。
最初の週が少ないのは、これを決めたのが、週の中頃だったからである。

そして現段階でなかなかヤバいなと思っているのは、19があけた現在、2ページ目がまだ途中という事実である。まあ、机上の計画とはいえ、ここまで作画に時間がかかるとは思ってもいなかった。というか、これでも結構効率化したつもりなのである。事前準備もそれなりにし、作業はスムーズに進んでいるはずだったのにも関わらず、だ。


更なる効率化を進めなければならない。そして、何か自分の進捗を監視するシステムが必要だ。
ということで、私はこのブログに、1週間に一度進捗と、作業をしていて気づいた、漫画作成のための効率化の断片をここに記すことにした。大丈夫、私はこうして文章でベラベラとまくしたてることが好きである。これはきっと、漫画を完成させる上で、有益なツールとなる。


早速、この土日での作業で気づいたことを下にまとめる。それぞれの項は非常に断片的であり、全体としての脈絡はほぼないが、許して欲しい。そして、もしこれが、これを読んでくださっているあなたの一助となれば、幸いである。私が思うに、イラストは描けるが、漫画は(描きたいのに)描けないという人は、一定の人数は存在しているはずなのだ。


・使用しているツール
使用するツールは、SAI、SAIFON、Excelである。SAIで基本的に作成し、SAIFONで文字を入れる。Excelは、背景作画等、直線が多い物体を描くときに使用する。何故これらのツールを用いたかについては、SAIについては、これが最も手になじみ、かつ、私がセルシス製のソフトとの相性がすこぶる悪いこと、またExcelについては、仕事柄よく使っているので、下手に新しいソフトを導入するよりも、これを利用したほうが良いと判断したからである。
なお、枠線もSAIで引く。別に引けると思う。具体的な説明が欲しいという方がおられたら、解説をしようと思う。


・プロットを作るとやりやすい
私は今回、作画作業の前に、プロットを作成した。これが、結構いいと(今の段階では)思っている。
プロットは、端的に言えばVIPSSみたいな文章である。セリフの応酬と、特に必要があれば、キャラクタの動作や環境についてのメモを入れる。1本の漫画で書けるストーリーはそれほど多くないので、そういう規模の話になるように意識した。私は元々小説を書いていたこともあり、この作業は1日、1〜2時間程度で終わった。

ラフは、これを利用して作った。最初に全てラフを描いてしまうのではなく、これから描く分だけを描き、すぐに作画作業に入った。
こうすることで、ラフの段階で、純粋に、全体の配置について気を配れた。心置きなく、1ページを一枚のページとして認識することができると思った。恐らくだが、このことはコマ割りにおいて、結構重要だと思う。


・意外とセリフで画面は隠れる(部分的な描画がメイン)
作画をしていて気づいたのは、意外と、セリフによって作画範囲がしぼられるな、ということだった。ここから考えられることは、1.最初に文字やセリフを入れてしまうべき ということと、2.全体のバランスを考える作業をある程度スポイルできる ということだ。
1.については、そうすることで、最初にセリフ等で作画が隠れる範囲が確定し、無駄な描画をしなくても良くなると思ったからだ。
また、2.についてだが、イラストの場合は、全身がくまなく画面上に発現するため、バランス(特に人体のそれ)には、かなり入念なチェックが必要だった。しかし、漫画の場合は、セリフの影響や、そもそも人体の一部分のみが描かれるコマが存在する。そして、そのようなコマを描くときは、全体のバランスチェックをスポイルして作業を進めていっていい。
そして、その作業時間は、細部の書き込みに費やされるべきだと思った。イラストの場合は、細部がある程度ラフであっても、全体のバランスが整っていれば、それも「味」になる場合もある。しかし、漫画の場合、そして、上記のような、オブジェクトの一部のみの描画になる場合、その細部がどれだけ書き込まれているかによって、見た目の「うまさ」は判断されるのではないかと考えた。だからきっと、漫画の場合は、全体のラフはそこそこで、必要となった細部の描画に多く神経を注ぐべきなのだ。


・キャラデザを暗記することは重要。なお、どのようにベタ処理するかについても覚えておくべき
キャラデザを頭の中に保存して作業することは重要だと思った。それも、保存するのはモノクロで描いたときのイメージである。ラフを引くときに、そのイメージをもって、直接引く(表現が難しいが)ことができるからである。資料をスタックし、ラフでは身体だけを描き、後から服を着せていくイラスト式の、基本とされている書き方では、正直遅すぎる。


・線画とベタ処理は同一レイヤー
これは絵柄にも関わってくるので一概には言えなさそうだが、こうするのが早いと思う。大体、線画を引いて、いちいち範囲選択をしているとそれだけで作業時間が倍加する。私は範囲選択作業が嫌いである。そして、それを前提に線画を描くことが更に我慢ならない。ベタ処理をペン入れと同時進行ですることによって、範囲選択処理の回数は半分以下になると思う。これは効率化を進める上ででかい。


・毛先の処理はわりと適当でいい
これは上記とかぶる部分があるかもしれない。髪、特に金髪等の、白色で表現すべき髪は、後で範囲選択して塗る必要がない。いや、トーンを貼りまくってクオリティを更に上げたいのであればそうすべきだろうが、私はしない。面倒くさい。そして、ある程度適当に毛先の処理をしたほうが躍動感がでる。これは、イラストを描いていたときに、漫画を読んでうらやましく思っていたポイントである。


・遠くの人物を描くのが辛い
この点が、補いきれない経験不足を感じたところだった。漫画を描く上で、バランスを考えなくてはならないのがロングで描く場合だが、キャラが画面を大きく縦断する場合には、迷いなく「イラスト式」でいったらいいかと思う。十分にバランスを吟味する意味があると思う。しかし、遠くにぽつんとそいつが立っているコマはどうだろう。正直、こんな小さな面積のためにバランスを吟味する作業などやってられないし、しかし、その作業を省いていることで、遠くのキャラの動きは、さながら地面に落ちたまま放置された人形のそれである。
シルエットでとらえる練習をすべきだと思った。バランスは、そもそも左右反転を繰り返し、吟味することでかろうじて整うものではなく、もっと感覚的に整っていくものなのだと思った。これについては、描きながら修行をしていこうと思う。


以上である。また来週にも同じことをする(はず)だと思うので、更新に期待していてください。

2014年1月13日月曜日

掛け算ってすごいよな

掛け算を考えた人はすごい、というよりも、こういう人の論理を構成する上で、基礎となる考え方を作りだし、それがまだ現代に生きているということそのものがすごいのだと感じる。

というのは、私が、何か発展的なものを作ろうと思ったら、常に掛け算的な思考を、人間は使わざるを得ないのではないかという考え方を持っているからだ。

古代の人間は、それこそ1とか0を考えだして、今の人間が物事を論理的に考える上での基礎を作った。
そういう基礎的な概念の発展の集合が、今の社会であり、人間の知能なんだと思う。

まあ、そんな中でも、今ことさらに強調したいのは、掛け算がいかにすごいものなのかということだ。

認知心理学的な知識の中に、「チャンク」というものがある。これは人が物事を記憶したりする上で、人間の脳というものは、個人差はあれど、最大8個くらいのものしか一度に覚えられないというものだ。
しかし、その「8個」という数字をどのように扱うかによって、記憶量は飛躍していくのである。つまり、8桁の数字をただ単純に覚えるよりも、それぞれ関連づけしたり、ゴロなんかに落とし込むことによって、それを「1個」として認識すれば、その8倍のものを一度に記憶することが可能なのである。

ここで挙げた話は正確には除算なのかもしれないが、しかし、この考え方、方向性こそが、重要だと思っている。


何か高度なものを作り出そうとするときに、いきなり細部から入っていくのはうまくないやり方だと思う。
例えば、絵を描くときは、漠然としたラフや、アタリから入ることが王道とされている。いきなり目を描き始めると、全体のバランスが崩れやすい。
文章を書くときは、最初に見出しを作ることが良い。いきなり書き始めると、終着点がぶれる。
プログラムを書くときなんかがまた顕著なんじゃないかと思う。いや、慣れている人は、何かを作ろうと思ったときに、自然とコードが頭に浮かんでくるのかもしれないが、私が仕事で簡単なExcelマクロを組むときは、まず処理の動きを箇条書きにし、処理の全体の流れを決めてから、細部のコード書きに取りかかっていく。

こうすることで何が良いかというと、色々あるが、下記の点が挙げられると思う。
・全体を気にするフェーズと細部を気にするフェーズが明確に分離するので、それぞれにおいて、能力を最大限、今の作業に集中させやすい。
・作業を計画性のあるものにしやすい。また、現在の進捗度を把握しやすい。


今、この世界にあるもののほとんどが、恐らく、人間の脳では一度に処理しきれないほど高度なものばかりだ。しかし、これらを作ったのは全て、人間である。人間は、ものを作成する上で、自分の脳で生み出した情報を記録や、整理することで、より高次元の概念を、この世に召喚することに成功した、と思う。


そして、この整理という段階で、現在人類が普遍的に使用しているのが、掛け算の概念だと思う。

考えてもみてほしい。何故この世にあるものは、そのほとんどが四角もしくはその集合体である直方体をしているのか? これこそが、人間が、物事を「掛け算」的に思考することで、より高次の処理能力を獲得した証拠ではないだろうか。

要するに、四角という形状は、X、Yという2つの数値で簡単に表せるのである。そして、さらにZを加えることで、空間が生まれる。たった3つの数値だけである。この三次元の概念を用いると、(少なくとも私たちが認識している世界の上では)全てのものの位置関係というものは、このX,Y,Zという数字から絶対に解放されることはない。これは、この三次元の概念が優れているというよりも、私たちが用いている、思考の最も基礎的な部分において、この認識方法が採用されているということだ。


掛け算の発明と、その広まり・伝達によって、私たちの祖先の知能の進化の方針が、強力に決定されたと言えるのではないだろうか。これはもはや、人間という種が持つひとつの特性である。



また、上記の話をふまえて、私が何を言いたいのかというと、であるならば、私たちが思考を「進化」、つまりまあ、難しい概念を理解したいだとか、仕事ができるようになりたいだとか、高度な作品やサービスを作りたいとか、そういった今までできなかった難しいことを考えたいと思ったとき、使うべきは掛け算の概念でしょうと。むしろこれしかないでしょうと。これしかないのなら、もうこれは確実な王道でしょうと。そういうことが言いたいわけです。


私は、物事を考えるときにエクセルにまとめますが、それが完成したとき、つまり、美しくエクセルの表にまとめられたとき、人はその物事を完全に理解したと言っていいと思います。もちろん、エクセルの表は何枚にもなる可能性があります。なぜなら、一枚の表は、AとBを掛け合わせた、平面に過ぎないからです。ここにC、Dといった数値を「掛け算」していくことで、さらに概念は立体感を増し、高度になっていきます。
エクセルの表に物事をまとめることは、どちらかというと除算と表現するのが的確かもしれませんが。まあ要するに、理解するときは除算、作り出すときは乗算と考えておけば、まず間違いないと思います。


結局、部屋の整理とかも、除算だと考えて間違いないと思います。そもそも整理とはなんですか。服を種別ごとに分けてタンスにしまうのは何故ですか。そうすることで、全ての服の位置を、いちいち頭で記憶しておく必要がないからではないのですか。書類をファイルに綴じてインデックスと見出しをつけるのは何故ですか。欲しい情報に対し、アクセスを容易にするためではないですか。


情報は、掛け算をすることで増やしていくべきだ。XやYといった一つの数値をあまり法外に多くすることは無益である。4に250を掛けて1000に至るよりも、4を5乗して1024に至るべきなのである。



このことを意識すると、何か強大な壁に自分が当たったときに、自分が取るべき行動、するべき考え方がおのずとわかってくるような気がする。乗算して思考することは、私たちが大空に飛び立つために得た翼のようなもので、乗算を積み重ねていけば、どんな高いところにも行けるはずなのである。


恐らく、乗算的な思考は、みんなどこかで無意識にやっている/やっていたのではないかと感じる。私は、これから、この思考を唯一無二の真実として、強く意識して生きていこうと思う。なぜなら、このことは、この世の中で生きていく上での、真理のひとつと言っても過言でないと思うからだ。

2014年1月5日日曜日

ピエロ

最近、別のアーティストやジャンルに浮気をして、あまりB'zを聞いていなかったが、今日何とはなしに、久々に聞いてみた。感想は、やはりB'zはいいものだと思った。心の支えになり得る。

今、ヘビーループで聞いているのはMONSTER収録の「ピエロ」だ。

桃色に染まる東雲…という、鮮やかかつどこか切なげな色彩から始まるこの曲は、1人の女性を奪って最高船速で「何か」から逃亡する歌だ。この疾走感と崩壊感が同居する感じは、今の私の心にしっくり落ちた。この手の楽曲は、他にパッと思いつくものとして「儚いダイヤモンド」や「なりふりかまわず抱きしめて」があったが(後者は性質としては再生に向かっていく歌詞だが、同じ、今にも壊れそうな「色」を感じた)、当初のこの「桃色」という色彩指定が、後に挙げた2曲との決定的なイメージを生み出しているような気がした。

そして、恐らくそれは、略奪愛というとんでもないことを「怪物に心をバリバリ食い散らかされて思わず」してしまった恐れ以上に、それをしてしまえたこと、できたことへの興奮、そしてこの後への希望、そういったプラスの感情が、歌詞に封入されているからだと思う。

だが、またしかし、そこに「ピエロ」というタイトルを持ってきたこと、そして「ひたむきで滑稽な逃亡者」「涙は流さないでおくれ」と、悲しむべき自分の姿を同時に歌詞に映していることが、そこに更に立体性を加えている。これは稲葉さんの歌詞の特徴だと思うが、こういうことを書かずにはいられないところがたまらなく大好きだ。

この曲の主人公は、自分の中の理性と、自分の中に眠る「怪物」と、必死に戦いながら毎日を生きているように思える。そんな想像が、自分の心と強くリンクし、今日は、この曲について感想を書くに至った。