2014年1月20日月曜日

GE2漫画描くぞプロジェクト・1週目〜イラスト専が漫画に挑むよ〜

漫画を書いている。

表題にもあるように、GE2の同人漫画(非エロ)である。
今度の夏コミで出すことを目標にしている。

こんなブログを書くことを思い立った理由を最初から説明すると、まず私は、趣味でイラストを描いており、その原点は、まあ何かを創作して発表することが好きだ、というところからきている。
そのイラストが、最近はどうも行き詰まって来て、何故だろうと自己分析したところ、やっぱり自分は文字ベースで、何かを認識し、思考し、外に出すことによって喜びを感じるタイプなんだなあと気づいたからだ。このブログなんて最たるものだ。というか、このブログは別に、自分に何か目標を課したりしてるわけでもないのに、それなりに細々と続いているあたり、やっぱりそれは正しいんじゃないかと思うのである。こんだけアホみたいに長文が多いのも、別に自分に縛りを入れているわけでもなくて、書き始めるとそれくらいの分量に自然となっていくのであって、まあどちらかというと、もっと平易に簡潔に書いた方が読む側には喜ばれるんだろうが、同時にそれも私にとっては難しいのである。

漫画は、元々書いてみたかった。だが、イラストから入った私にとって、漫画は未知の領域だった。そもそも、イラストはキャラ1体でも十分に完結する表現手段であって、そのくせ1枚描くのに6〜8時間くらい(キャラ1体がポーズをとっている一般的な萌えイラストであってもだ)かかってしまう。漫画は、その点、キャラが一言「あ」とでも喋ろうものなら、前述の認識を踏まえれば、その「あ」というセリフを表現するために、6〜8時間もの作業時間を求められるわけであって、そうなってくると、そのセリフの応酬とキャラの躍動をもってしてひとつの何かを表現しようなどと考えると、もうわけがわからないのである。というか、正直、6〜8時間もあれば、私であれば、それなりの規模の小説を1本書いてしまうことができる。

それなりに効率性を求める必要がどうしてもあると感じた。趣味に効率性を求めだすともうそれは別の何かであるような気がしたが、私という人間が通常に装備しているモチベーションと作業時間、そして最低限何かを表現するために必要な物語のスパンを考えると、そもそも1本の漫画を完結させるためにそれなりの効率性の探求は求められると思う。どのように簡略化するか(実際の作業も、そして思考レベルについても)。そしてもっと重要なのは、どのように段取りをして作業を進めるか。これを私は、実はずっと考えて来た。


そして、あくまで机上レベルでだが、それはついに私の中で、実際に漫画を描くことができるという結論に達するまでに煮詰まった。私は、私には漫画がかけると認識したのである。


ここに、計画表がある。

日付 ノルマページ数
1月19日 2
1月26日 5
2月2日 8
2月9日 11
2月16日 14
2月23日 17
3月2日 20
3月9日 23
3月16日 26
3月23日 29
1週間3ページのノルマを設定した。
最初の週が少ないのは、これを決めたのが、週の中頃だったからである。

そして現段階でなかなかヤバいなと思っているのは、19があけた現在、2ページ目がまだ途中という事実である。まあ、机上の計画とはいえ、ここまで作画に時間がかかるとは思ってもいなかった。というか、これでも結構効率化したつもりなのである。事前準備もそれなりにし、作業はスムーズに進んでいるはずだったのにも関わらず、だ。


更なる効率化を進めなければならない。そして、何か自分の進捗を監視するシステムが必要だ。
ということで、私はこのブログに、1週間に一度進捗と、作業をしていて気づいた、漫画作成のための効率化の断片をここに記すことにした。大丈夫、私はこうして文章でベラベラとまくしたてることが好きである。これはきっと、漫画を完成させる上で、有益なツールとなる。


早速、この土日での作業で気づいたことを下にまとめる。それぞれの項は非常に断片的であり、全体としての脈絡はほぼないが、許して欲しい。そして、もしこれが、これを読んでくださっているあなたの一助となれば、幸いである。私が思うに、イラストは描けるが、漫画は(描きたいのに)描けないという人は、一定の人数は存在しているはずなのだ。


・使用しているツール
使用するツールは、SAI、SAIFON、Excelである。SAIで基本的に作成し、SAIFONで文字を入れる。Excelは、背景作画等、直線が多い物体を描くときに使用する。何故これらのツールを用いたかについては、SAIについては、これが最も手になじみ、かつ、私がセルシス製のソフトとの相性がすこぶる悪いこと、またExcelについては、仕事柄よく使っているので、下手に新しいソフトを導入するよりも、これを利用したほうが良いと判断したからである。
なお、枠線もSAIで引く。別に引けると思う。具体的な説明が欲しいという方がおられたら、解説をしようと思う。


・プロットを作るとやりやすい
私は今回、作画作業の前に、プロットを作成した。これが、結構いいと(今の段階では)思っている。
プロットは、端的に言えばVIPSSみたいな文章である。セリフの応酬と、特に必要があれば、キャラクタの動作や環境についてのメモを入れる。1本の漫画で書けるストーリーはそれほど多くないので、そういう規模の話になるように意識した。私は元々小説を書いていたこともあり、この作業は1日、1〜2時間程度で終わった。

ラフは、これを利用して作った。最初に全てラフを描いてしまうのではなく、これから描く分だけを描き、すぐに作画作業に入った。
こうすることで、ラフの段階で、純粋に、全体の配置について気を配れた。心置きなく、1ページを一枚のページとして認識することができると思った。恐らくだが、このことはコマ割りにおいて、結構重要だと思う。


・意外とセリフで画面は隠れる(部分的な描画がメイン)
作画をしていて気づいたのは、意外と、セリフによって作画範囲がしぼられるな、ということだった。ここから考えられることは、1.最初に文字やセリフを入れてしまうべき ということと、2.全体のバランスを考える作業をある程度スポイルできる ということだ。
1.については、そうすることで、最初にセリフ等で作画が隠れる範囲が確定し、無駄な描画をしなくても良くなると思ったからだ。
また、2.についてだが、イラストの場合は、全身がくまなく画面上に発現するため、バランス(特に人体のそれ)には、かなり入念なチェックが必要だった。しかし、漫画の場合は、セリフの影響や、そもそも人体の一部分のみが描かれるコマが存在する。そして、そのようなコマを描くときは、全体のバランスチェックをスポイルして作業を進めていっていい。
そして、その作業時間は、細部の書き込みに費やされるべきだと思った。イラストの場合は、細部がある程度ラフであっても、全体のバランスが整っていれば、それも「味」になる場合もある。しかし、漫画の場合、そして、上記のような、オブジェクトの一部のみの描画になる場合、その細部がどれだけ書き込まれているかによって、見た目の「うまさ」は判断されるのではないかと考えた。だからきっと、漫画の場合は、全体のラフはそこそこで、必要となった細部の描画に多く神経を注ぐべきなのだ。


・キャラデザを暗記することは重要。なお、どのようにベタ処理するかについても覚えておくべき
キャラデザを頭の中に保存して作業することは重要だと思った。それも、保存するのはモノクロで描いたときのイメージである。ラフを引くときに、そのイメージをもって、直接引く(表現が難しいが)ことができるからである。資料をスタックし、ラフでは身体だけを描き、後から服を着せていくイラスト式の、基本とされている書き方では、正直遅すぎる。


・線画とベタ処理は同一レイヤー
これは絵柄にも関わってくるので一概には言えなさそうだが、こうするのが早いと思う。大体、線画を引いて、いちいち範囲選択をしているとそれだけで作業時間が倍加する。私は範囲選択作業が嫌いである。そして、それを前提に線画を描くことが更に我慢ならない。ベタ処理をペン入れと同時進行ですることによって、範囲選択処理の回数は半分以下になると思う。これは効率化を進める上ででかい。


・毛先の処理はわりと適当でいい
これは上記とかぶる部分があるかもしれない。髪、特に金髪等の、白色で表現すべき髪は、後で範囲選択して塗る必要がない。いや、トーンを貼りまくってクオリティを更に上げたいのであればそうすべきだろうが、私はしない。面倒くさい。そして、ある程度適当に毛先の処理をしたほうが躍動感がでる。これは、イラストを描いていたときに、漫画を読んでうらやましく思っていたポイントである。


・遠くの人物を描くのが辛い
この点が、補いきれない経験不足を感じたところだった。漫画を描く上で、バランスを考えなくてはならないのがロングで描く場合だが、キャラが画面を大きく縦断する場合には、迷いなく「イラスト式」でいったらいいかと思う。十分にバランスを吟味する意味があると思う。しかし、遠くにぽつんとそいつが立っているコマはどうだろう。正直、こんな小さな面積のためにバランスを吟味する作業などやってられないし、しかし、その作業を省いていることで、遠くのキャラの動きは、さながら地面に落ちたまま放置された人形のそれである。
シルエットでとらえる練習をすべきだと思った。バランスは、そもそも左右反転を繰り返し、吟味することでかろうじて整うものではなく、もっと感覚的に整っていくものなのだと思った。これについては、描きながら修行をしていこうと思う。


以上である。また来週にも同じことをする(はず)だと思うので、更新に期待していてください。

2014年1月13日月曜日

掛け算ってすごいよな

掛け算を考えた人はすごい、というよりも、こういう人の論理を構成する上で、基礎となる考え方を作りだし、それがまだ現代に生きているということそのものがすごいのだと感じる。

というのは、私が、何か発展的なものを作ろうと思ったら、常に掛け算的な思考を、人間は使わざるを得ないのではないかという考え方を持っているからだ。

古代の人間は、それこそ1とか0を考えだして、今の人間が物事を論理的に考える上での基礎を作った。
そういう基礎的な概念の発展の集合が、今の社会であり、人間の知能なんだと思う。

まあ、そんな中でも、今ことさらに強調したいのは、掛け算がいかにすごいものなのかということだ。

認知心理学的な知識の中に、「チャンク」というものがある。これは人が物事を記憶したりする上で、人間の脳というものは、個人差はあれど、最大8個くらいのものしか一度に覚えられないというものだ。
しかし、その「8個」という数字をどのように扱うかによって、記憶量は飛躍していくのである。つまり、8桁の数字をただ単純に覚えるよりも、それぞれ関連づけしたり、ゴロなんかに落とし込むことによって、それを「1個」として認識すれば、その8倍のものを一度に記憶することが可能なのである。

ここで挙げた話は正確には除算なのかもしれないが、しかし、この考え方、方向性こそが、重要だと思っている。


何か高度なものを作り出そうとするときに、いきなり細部から入っていくのはうまくないやり方だと思う。
例えば、絵を描くときは、漠然としたラフや、アタリから入ることが王道とされている。いきなり目を描き始めると、全体のバランスが崩れやすい。
文章を書くときは、最初に見出しを作ることが良い。いきなり書き始めると、終着点がぶれる。
プログラムを書くときなんかがまた顕著なんじゃないかと思う。いや、慣れている人は、何かを作ろうと思ったときに、自然とコードが頭に浮かんでくるのかもしれないが、私が仕事で簡単なExcelマクロを組むときは、まず処理の動きを箇条書きにし、処理の全体の流れを決めてから、細部のコード書きに取りかかっていく。

こうすることで何が良いかというと、色々あるが、下記の点が挙げられると思う。
・全体を気にするフェーズと細部を気にするフェーズが明確に分離するので、それぞれにおいて、能力を最大限、今の作業に集中させやすい。
・作業を計画性のあるものにしやすい。また、現在の進捗度を把握しやすい。


今、この世界にあるもののほとんどが、恐らく、人間の脳では一度に処理しきれないほど高度なものばかりだ。しかし、これらを作ったのは全て、人間である。人間は、ものを作成する上で、自分の脳で生み出した情報を記録や、整理することで、より高次元の概念を、この世に召喚することに成功した、と思う。


そして、この整理という段階で、現在人類が普遍的に使用しているのが、掛け算の概念だと思う。

考えてもみてほしい。何故この世にあるものは、そのほとんどが四角もしくはその集合体である直方体をしているのか? これこそが、人間が、物事を「掛け算」的に思考することで、より高次の処理能力を獲得した証拠ではないだろうか。

要するに、四角という形状は、X、Yという2つの数値で簡単に表せるのである。そして、さらにZを加えることで、空間が生まれる。たった3つの数値だけである。この三次元の概念を用いると、(少なくとも私たちが認識している世界の上では)全てのものの位置関係というものは、このX,Y,Zという数字から絶対に解放されることはない。これは、この三次元の概念が優れているというよりも、私たちが用いている、思考の最も基礎的な部分において、この認識方法が採用されているということだ。


掛け算の発明と、その広まり・伝達によって、私たちの祖先の知能の進化の方針が、強力に決定されたと言えるのではないだろうか。これはもはや、人間という種が持つひとつの特性である。



また、上記の話をふまえて、私が何を言いたいのかというと、であるならば、私たちが思考を「進化」、つまりまあ、難しい概念を理解したいだとか、仕事ができるようになりたいだとか、高度な作品やサービスを作りたいとか、そういった今までできなかった難しいことを考えたいと思ったとき、使うべきは掛け算の概念でしょうと。むしろこれしかないでしょうと。これしかないのなら、もうこれは確実な王道でしょうと。そういうことが言いたいわけです。


私は、物事を考えるときにエクセルにまとめますが、それが完成したとき、つまり、美しくエクセルの表にまとめられたとき、人はその物事を完全に理解したと言っていいと思います。もちろん、エクセルの表は何枚にもなる可能性があります。なぜなら、一枚の表は、AとBを掛け合わせた、平面に過ぎないからです。ここにC、Dといった数値を「掛け算」していくことで、さらに概念は立体感を増し、高度になっていきます。
エクセルの表に物事をまとめることは、どちらかというと除算と表現するのが的確かもしれませんが。まあ要するに、理解するときは除算、作り出すときは乗算と考えておけば、まず間違いないと思います。


結局、部屋の整理とかも、除算だと考えて間違いないと思います。そもそも整理とはなんですか。服を種別ごとに分けてタンスにしまうのは何故ですか。そうすることで、全ての服の位置を、いちいち頭で記憶しておく必要がないからではないのですか。書類をファイルに綴じてインデックスと見出しをつけるのは何故ですか。欲しい情報に対し、アクセスを容易にするためではないですか。


情報は、掛け算をすることで増やしていくべきだ。XやYといった一つの数値をあまり法外に多くすることは無益である。4に250を掛けて1000に至るよりも、4を5乗して1024に至るべきなのである。



このことを意識すると、何か強大な壁に自分が当たったときに、自分が取るべき行動、するべき考え方がおのずとわかってくるような気がする。乗算して思考することは、私たちが大空に飛び立つために得た翼のようなもので、乗算を積み重ねていけば、どんな高いところにも行けるはずなのである。


恐らく、乗算的な思考は、みんなどこかで無意識にやっている/やっていたのではないかと感じる。私は、これから、この思考を唯一無二の真実として、強く意識して生きていこうと思う。なぜなら、このことは、この世の中で生きていく上での、真理のひとつと言っても過言でないと思うからだ。

2014年1月5日日曜日

ピエロ

最近、別のアーティストやジャンルに浮気をして、あまりB'zを聞いていなかったが、今日何とはなしに、久々に聞いてみた。感想は、やはりB'zはいいものだと思った。心の支えになり得る。

今、ヘビーループで聞いているのはMONSTER収録の「ピエロ」だ。

桃色に染まる東雲…という、鮮やかかつどこか切なげな色彩から始まるこの曲は、1人の女性を奪って最高船速で「何か」から逃亡する歌だ。この疾走感と崩壊感が同居する感じは、今の私の心にしっくり落ちた。この手の楽曲は、他にパッと思いつくものとして「儚いダイヤモンド」や「なりふりかまわず抱きしめて」があったが(後者は性質としては再生に向かっていく歌詞だが、同じ、今にも壊れそうな「色」を感じた)、当初のこの「桃色」という色彩指定が、後に挙げた2曲との決定的なイメージを生み出しているような気がした。

そして、恐らくそれは、略奪愛というとんでもないことを「怪物に心をバリバリ食い散らかされて思わず」してしまった恐れ以上に、それをしてしまえたこと、できたことへの興奮、そしてこの後への希望、そういったプラスの感情が、歌詞に封入されているからだと思う。

だが、またしかし、そこに「ピエロ」というタイトルを持ってきたこと、そして「ひたむきで滑稽な逃亡者」「涙は流さないでおくれ」と、悲しむべき自分の姿を同時に歌詞に映していることが、そこに更に立体性を加えている。これは稲葉さんの歌詞の特徴だと思うが、こういうことを書かずにはいられないところがたまらなく大好きだ。

この曲の主人公は、自分の中の理性と、自分の中に眠る「怪物」と、必死に戦いながら毎日を生きているように思える。そんな想像が、自分の心と強くリンクし、今日は、この曲について感想を書くに至った。

2013年11月17日日曜日

「人が変わらずにはいられない」ことが嬉しく感じられる日に ~この空が飛べたら~

言葉には、「色」がある。

別に私には共感覚といったものはないが、確かにそれはあると思う。

昨日まで使っていた言葉が、今日になったら突然全く違う字面に見えることがある。しかもよく照合してみると、それは驚くべきことに、全く同じ単語だったりするのだ。
その言葉を心で読んでみた時に、その響きは昨日と全く違って感じられ、昨日のメモや、Twitterに何気なしに投稿したツイートと合わせてみた時に、初めてそれが同じ単語だと認識する体験。

昔、宮藤官九郎によってリファインされた「ゼブラーマン」に、「空はなぜ青いのか」という問いが存在した。子どもたちはこれを、大人を判定するための「大人テスト」として主人公に投げかけるわけだが、2回目、この問を受けた時に、主人公は、「空は毎日その色を変える」…といったことを返答したと記憶している。

世界はその色を、毎日毎日変えていく。そしてそれは、自分が変わっていることと同義である。何故なら、世界を変わったと認識するのは自分自身に他ならないのであり、世界が本当に変わろうが変わっていなかろうが、そんなことはもはや関係ない(と、ここではあえて言い切りたい)のだ。



最近、とある歌い手の動画を見たことがきっかけで、「この空を飛べたら」という、中島みゆきさんの曲を知った。調べてみれば、昔のヒット曲であり、随分有名な歌であったみたいだが、恥ずかしながら私は知らなかった。そして、今まで知らなかったことを心底残念に思った。

「ああ 人は 昔々 鳥だったのかもしれないね こんなにも こんなにも 空が恋しい」
この歌詞を聞いて、不覚にも涙が止まらなかった。かつて当たり前だったことが今は永遠にかなわないことを歌っているのか、他にも色々な解釈を許してくれそうなこの表現だが、しかし、心の中核の部分を直接的に刺激してくる、日本語の美しさをこれでもかと見せつけてくれるような歌詞だと思った。

空を歌った歌は魅力的だ。人は空に何を思うのだろう。
翼を持たない私達に許されるのは、基本的に、前後左右の平面的な移動のみである。にもかかわらず、私達はものの優越を「上下」で換算するのだ。青天井に広がる大空は、私達が夢見ることを許された楽園なのかもしれない。そこに、「成層圏」やら「宇宙」といった現実的な解釈は、相当に野暮であると言ってもいいだろう。


空はその人の心を映す、という言葉も最早使い古されている感がある。

ともあれ、私は今、そんな移ろいゆく空の変化が魅力的でしょうがない心理状態なのだ。

人は変わり、そしてどこへ向かっていくのか。
昨日の心理状態の私なら、それは死と孤独に他ならないと答えたはずだ。
今の自分はどうだろうか。少なくとも、「終着点を起点に考察することはあまりよろしいことではない」と感じるだろう。

言葉には色がある。全てのものには翼がある。一つ一つのモノに、自分という主体が魂を吹き込むのだ。
そうして、世界は踊る。空はその色を変える。それを変えるのは、変わってしまった私そのものだ。


常に変わり流転していくこの世界は色とりどりで美しい。キラキラキラキラ輝いて、私を高揚させる。

高揚しているのは、私自身だ。
この世界は、なんとくだらないんだろう。
しばし飛び跳ねた後、私はやはり、これらが低俗なネオンサインの輝きと遜色ないことに改めて気付き、日常の灰色を望むのだ。

2013年11月15日金曜日

「人が変わらずにはいられない」ことが寂しくてしょうがない夜に

人は有機的な物体であるから、その一瞬でさえ、同一な瞬間はない。
人が「変わらない」ことは、それを見る側の感受性によってそう感じられているわけで、「変わらない」なんてことは、物理的にありえないはずなのだ…肉体的にも、精神的にも。

今日はそのことをことさら強調して主張する気はなくて、では言いたいことは何かというと、そういったことがひどく物悲しく感じる時――私にとってそれは今だったりするわけだが――は、一体どういう時なのかを考えたいと思っているのだ。

人は変わっていく。人の変容は、恐らく色々な要素が絡み合って、それこそグラフに表せば、その変化を克明に記録するための指標は、10あっても100あっても足りないはずだし、それを端的に、こう変わった、と表現することは、すごく難しい行為であるはずなのだ。

でも、結局、感情の面で、それは結局のところ、「良く変わった」か、「悪く変わった」かの、一次元的な指標に落とし込まれる気がする。
そして、一度成人を迎えてしまうと、自然と「よく変わる」ことはとても難しいことのような気がする。

私は友人をつくることがとても苦手だ。人と会話をすることが不得手な性格は、昔からずっと「変わらない」。
そのおかげで、今まさに、私は世界の中でひとり残されたような孤独感を味わっている。

仕事に行けば、また戦いが始まるのだ。あそこにあるのは、利害や立場によって味方と敵がめまぐるしく変わっていく、液状化した大地だし、その敵の多くは伴侶や子供がいたりして、戦うために必要な支えを持っていたりする。私にはそれがない。それがあったことがない。

「変わる」ことは、私にとって、孤独になっていくことのような気がする。自分の周りの全てが風化して、真っ白になっていくような気がする。そして、私以外の人間は、それぞれの居場所をどんどん見つけていく。私だけが、ボロボロの発泡スチロールのように、擦り切れながら、強風に煽られ宙に舞っているような気がする。

私は、自分の言動、思いが人にとって否定的に捉えられないかどうか、常に怯えている必要性を抱えている。
それはきっと、私が抱えている孤独の、かなり的確な表現だ。


何故、こんなことになってしまったのかは、私自身には到底わからない。いや、本当は気づいているのかもしれないが、私にとってそれに気づくことは、精神的に耐えられる負荷ではない。


どうして人は変わってしまうのだろう、は、いつまで、このような、世界から取り残されたような感情を抱き続けるのだろう、に直接的に置き換えることができる。この耐え難い孤独感から逃げるために、人は群れようとするのだろうか。残念ながら、私には群れるための技術も要領もない。私は淘汰されるのだろうか。


社会性を身につけなければならない。ニュースや天気にもっと気を配らなければならないのだ。有り体な表現だが、私の心には、ぽっかり穴が開いている。誰かに、薪をくべにきて欲しいと切に願っている。だが、願うだけでは何も変わろうはずもない。それは甘えだ。


人生に光を待っている。その光が人間関係であることは認めたくない。
かくして、私はまた孤独を噛みしめることになるのかもしれない。それもしょうがないことなのかもしれない。

2013年11月9日土曜日

iPad Air 購入3日目の感想と雑記



・まずはじめに

私にとって、このiPadAirが初めてのタブレットです。
iPadAirに特化したレビューというよりも、タブレット全般の使用例としての理解のほうが、適当な場合も多いかと思いますので、ご了承ください。


自分がiPad購入に踏み切ったのは、主にEvernoteと電子書籍、あとニュースの閲覧をするために、これが有効なツールだと判断したからです。
あと、タッチペンを購入することで、趣味であるイラストのアイデアを素早くスケッチし、Penultimateを用いてEvernoteにスタックする使い方も考えていました。

全世代のiPadと、iPadminiを見たときに、私は、自分が使うにあたって、これが実用に耐えられる代物ではないと感じました。iPad Retinaディスプレイは、その重さに耐えきれないと感じました。その点、iPadminiは理想的な軽さでしたが、普段iPhone4Sを使用している身としては、Retinaではない、通常のディスプレイを至近距離から見ることは耐えられませんでした。また、ディスプレイの両端の、広いベゼルも不満でした。私は、iPadminiの重さのiPadがリリースされることを望みました。

次世代のiPadの噂を私は収集しました。すると、新しいiPadは、薄く、かつ軽くなるとのことでした。私は、新しいiPadがリリースされるまで、購入を我慢する必要があると思いました。

そして、iPadAirの情報が公開され、私はこれこそ、私が待ち望んでいたものだと思いました。特に現物も確かめずにウェブサイトから注文しました。私には、この買い物が失敗にはならないという確信がありました。


届いたiPadは、私が望んだとおりの品物でした。薄く、かつ、iPadminiに肉薄するほど軽い。私は取り付かれたようにiPadAirを操作し、自分が望むように設定をしていきました。

そして、iPadが届いてから3日経ち、私は、現在の感想を以下のように持ちました。

・「読む」ためのツール

私は、PC関係の製品を購入するときは、その物が、自分の生活の中で描かれる理想的なコンセプトのうち、どういったパートを担当させるのかを考えた結果、購入に至ることが多いです。私は、iPadを、「読む」ことと「メモする」こと(これはスタイラスペンと併せて使うことを想定しているため)に使用するつもりでしたが、iPadは、「メモする」こと…つまり、「入力」にはそれほど向かないツールだと感じました。
私の予想以上に、Penultimateへの入力は不便で、また、画面上のキーボードでの入力についても、(これは慣れの問題も大きいかと思いますが)思いのほかストレスを感じることが多かったです。これは、iPadをノートそのものにしてしまおうと考えていた私にとって誤算でした。

しかし、こと「読む」ことに関しては、iPadほど適したツールはないと感じました。これは、雑誌や新聞等の紙媒体を含めての感想です。Evernoteのカードビューや、SmartnewsやFlipboardの雑誌風のUIは、あらゆる記事を、数段興味深く、私に感じさせました。高細度のRetinaディスプレイと美しいフォントは、ただの言語の表示であるにもかかわらず、表示だけで私の気分を高揚させました。

また、iPadだけで全てが完結するため、膨大な情報を目にしても、決して持ち物がかさばることがないということは、デジタルの当然の利点でありながら、改めてその有益さを感じさせる魅力を持っていました。


・「書く」ことはPC、もしくはアナログとカメラで

私はこの文章を、MacbookAirで書いています。やはり、「入力」することが予期される場合、iPadを持ち出すよりも、ノートPCを持ち出した方が遥かに有益です。

そして、アイデアをひたすら殴り書きするような、端的に言えば、構想を練る段階に今自分がいるとき、やはり適しているのは、紙のノートとペンを持ち出すことだと思いました。幸い、iPhoneやiPadには、高精度のカメラがついています。そして、Evernoteには、文書をカメラで取り込むためのモードが用意されています。また、Skitchを使って、簡単に注釈をつけることもできます。

最近はEvernoteと連携することを目的とした専用のノートやポストイットが発売されています。私はこれらに興味を持っていますが、自分が簡単なスケッチやメモ書きをEvernoteにまとめ、最終的にiPadで振り返るにあたって、これらのツールは必要ないのではないかと思っています。それほど、iPadAirを「読む」ことについては高性能なツールだと評価しているのです。



・終わりに

私はiPadAirを購入したことで、紙のノートブックは無用の長物になると予期していましたが、やはりまだまだ、紙とペンは有力なツールであると再認識しました。
しかし、入力において、PCや、紙とペンを超えたとき、iPadは更なるステージ、何かまだ画期的な、全くの別ものに進化するのではないかと思いました。

私にとってiPadの購入は決して安い物ではありませんでしたが、そのことを後悔することは恐らくないだろうと思います。私の生活は、新時代のツールによってまたひとつ変化し、そのことについて純粋な喜びを感じます。

2013年11月8日金曜日

Blogの方針転換について

どうもこんにちは。

当ブログは、今日をもって、「ふみまるは両足で歩きます」にタイトル変更し、いろいろな日々のことを書き連ねる趣旨に方針を転換しようと思います。

そもそもは、B'zの感想を随時書いて、それにイラストをたまにつけられたらなーと思ったのですが、まあ有り体に言うと挫折をした形になって、また、私自身が、どこかで思いを文章にして発散する場が欲しいなと思っていたところもあり、方針転換を決意したわけです。

方針転換の主な理由は、Google+との連携機能を知ったことでした。
なにがしか、世間に向けて自分の文章を発表したい欲求にかられた時に、自分にはそういう場が設けられていないことに気づきました。そして、自分にそういう場が必要であることを、私は定期的に自覚します。

Google+は面白く、かつ優れたSNSだと思っています。
私は、かつてないほど(といっても、今までが、そこまで反応があったわけではないですが)、自分がネット上に投稿したイラストについて、反応を得ることができました。これはなかなか衝撃的であり、また、自分には、イラストに対する反応が必要であったことを知りました。

私は何が人より優れている訳でなく、また、実際にそのことは、私の今の社会的な立場に現れていますが、私は何かを表現し発表しなければ気持ちが落ち着かない性癖を抱えています。私の中には、未だ私にも判別できない、黒い蛇のような何かがいます。私は、常にこの蛇と暮らし、時にこの蛇が暴れだしたときは、どうしようもない苦痛を覚えます。なぜなら、私は、そこそこ長い人生を生きてきた今でさえ、この蛇が一体何を望んでいるかを全く理解できていないからです。

このBlogが、私の欲求を満たす、一つの手段となることを願います。

それでは、これからどうぞ、よろしくお願いします。