2013年11月15日金曜日

「人が変わらずにはいられない」ことが寂しくてしょうがない夜に

人は有機的な物体であるから、その一瞬でさえ、同一な瞬間はない。
人が「変わらない」ことは、それを見る側の感受性によってそう感じられているわけで、「変わらない」なんてことは、物理的にありえないはずなのだ…肉体的にも、精神的にも。

今日はそのことをことさら強調して主張する気はなくて、では言いたいことは何かというと、そういったことがひどく物悲しく感じる時――私にとってそれは今だったりするわけだが――は、一体どういう時なのかを考えたいと思っているのだ。

人は変わっていく。人の変容は、恐らく色々な要素が絡み合って、それこそグラフに表せば、その変化を克明に記録するための指標は、10あっても100あっても足りないはずだし、それを端的に、こう変わった、と表現することは、すごく難しい行為であるはずなのだ。

でも、結局、感情の面で、それは結局のところ、「良く変わった」か、「悪く変わった」かの、一次元的な指標に落とし込まれる気がする。
そして、一度成人を迎えてしまうと、自然と「よく変わる」ことはとても難しいことのような気がする。

私は友人をつくることがとても苦手だ。人と会話をすることが不得手な性格は、昔からずっと「変わらない」。
そのおかげで、今まさに、私は世界の中でひとり残されたような孤独感を味わっている。

仕事に行けば、また戦いが始まるのだ。あそこにあるのは、利害や立場によって味方と敵がめまぐるしく変わっていく、液状化した大地だし、その敵の多くは伴侶や子供がいたりして、戦うために必要な支えを持っていたりする。私にはそれがない。それがあったことがない。

「変わる」ことは、私にとって、孤独になっていくことのような気がする。自分の周りの全てが風化して、真っ白になっていくような気がする。そして、私以外の人間は、それぞれの居場所をどんどん見つけていく。私だけが、ボロボロの発泡スチロールのように、擦り切れながら、強風に煽られ宙に舞っているような気がする。

私は、自分の言動、思いが人にとって否定的に捉えられないかどうか、常に怯えている必要性を抱えている。
それはきっと、私が抱えている孤独の、かなり的確な表現だ。


何故、こんなことになってしまったのかは、私自身には到底わからない。いや、本当は気づいているのかもしれないが、私にとってそれに気づくことは、精神的に耐えられる負荷ではない。


どうして人は変わってしまうのだろう、は、いつまで、このような、世界から取り残されたような感情を抱き続けるのだろう、に直接的に置き換えることができる。この耐え難い孤独感から逃げるために、人は群れようとするのだろうか。残念ながら、私には群れるための技術も要領もない。私は淘汰されるのだろうか。


社会性を身につけなければならない。ニュースや天気にもっと気を配らなければならないのだ。有り体な表現だが、私の心には、ぽっかり穴が開いている。誰かに、薪をくべにきて欲しいと切に願っている。だが、願うだけでは何も変わろうはずもない。それは甘えだ。


人生に光を待っている。その光が人間関係であることは認めたくない。
かくして、私はまた孤独を噛みしめることになるのかもしれない。それもしょうがないことなのかもしれない。