2014年12月29日月曜日

C87お疲れ様でした


お疲れ様でした

色々と忙しく、またモノクロ女のカルマも、色々と自分の中で気にならないところがない、といえば嘘になりますが、とりあえず、そのコンセプト、方向性をしっかりと見据えられたいい作品になったのではないかと思います。

会場でも、結構な人数の方に、前作のアランスミシー含めて買っていただくことができ、楽しいコミケ、楽しい数ヶ月感だったと思います。


個人的に、illust_fumyuuの創作物の中で絵本に類推する、正方形の頒布物は、「アラン・スミシー・プロジェクト」の制作物と位置づけており、illust_fumyuuが頒布してきた中で、特に自信を持ってオススメできる作品となっています。

アラン・スミシー・プロジェクトの2作品については、今後DL販売と、委託通販を予定しています。詳細が決まりましたら、またご連絡します。


また、illust_fumyuuについてですが、2014年の終わりをもって、サークル解散とさせていただきます。また、私自身も、改名をし、全く新しいスタートを切るつもりでいます。
活動内容に大きな転換はありませんが、より活動を活発化するための布石という意味合いが大きいです。
再スタートに伴い、ブログの移転等も検討していますが、これはまた正式に決定次第ここでご連絡します。

何はともあれ、冬コミお疲れ様でした。
私は、とりあえず半年はオフでの活動はしない予定です。来年の冬コミはもしかしたら出るかもしれません。またお会いできる機会を楽しみにしています。

2014年12月21日日曜日

告知ページの設置について(C87)

C87の告知ページを作成しました。

http://monochroc87.tumblr.com/

色々とありましたが、なんとか、無事完成までこぎつけました…。

当日、たくさんの人に作品を手渡しできることを楽しみにしています。
この数ヶ月、色々と辛いこともありましたが、最後、イベントで素敵な出会いがあることで、それらが報われることを信じています。

それでは、よろしくお願いします。

2014年11月17日月曜日

C87受かりました

お久しぶりです。

普段の行いなのか、どうなのかはわかりませんが、とりあえずC87に受かりましたので報告をさせていただきます。

場所は、日曜日西に08bです。


今現在、進捗が大変遅れており、マジで間に合うかわからない状況に戦慄しています。
落としたらどうしよう…


原稿以外はなんとか上手いこと回ってるので、ここで最後ミスらないように頑張りたいです。


それでは原稿したいのでこのあたりで。当日まで、時間を圧縮して頑張りたいと思います。

2014年8月31日日曜日

C87で頒布予定作品―「モノクロ女のカルマ」について

Twitterのほうでは結構前に告知したのですが、


C87への登録申請作業が終わりました。今回は「絵本サークル」として、1日目の「歴史・創作(文芸・小説)」(ジャンルコード615)にて申請しました。


サークルカットでも大きくアピールをしたとおり、今回は明確に「絵本」となります。1年ほど前に頒布した「僕が愛した"アラン・スミシー"」の流れを踏襲する形ですが、前回の、「イラストに一連のストーリーをつける」という形から、更に明確に「絵本である」という位置づけに特化した感じになりそうです。

ちなみに今全体構想が固まった段階にありますが、構想通り運べば、本文20pのフルカラーになりそうです。サイズについては、現在価格との兼ね合いを見て調整中ですが、できれば正方形型の変形サイズにしたいと思っています。理由は下で述べます。


絵本ということですが、ただの絵本ではつまらない、ということで、今回は構想段階から、「歌詞」によって進行するストーリー展開を特徴としてあげる予定です。

大分昔に、イベントにミュージカルをはさむ「マール王国の人形姫」というゲームタイトルがありましたが、それのイメージから、更に歌部分に特化させたような形になります。「歌詞」の内容については、私好みの、もう少しキャラクターの内面性に注力したものになる予定です。
ただ、私のスキル事情により、「歌詞」という体はとりますが、実際に音源等の準備はありません。そのあたりは、雰囲気作りの一環として理解してもらえたらなあと思っています。

ただ、体裁について、「歌詞カード」をイメージしたものにしたいと思っています。CDとかに入ってるアレです。金額との折り合いが付けば、正方形の変型サイズとしたいと思っていますが、そのあたりは今業者に見積を依頼しているので、それの結果如何です。


何にせよ、完成した段階でどうなるか、事前に予測することはきっと難しいだろう(作者のひとりである私にも)と思える試みなので、ぜひぜひコミケ頒布の際には、お立ち寄りをいただけたらと思っております(まあまだコミケに受かるかどうかもわからないわけですが!)。

コミケに落ちたら、どこか似たような時期の別イベントに申し込もうかと思っておりますので、その際はまたこのBlogで告知したいと思っております。


ちなみに、作成について、興味をもってもらうために少し情報を出すと、

現在、キャラデザがほぼ確定したところです。

基本的にここで挙げた二人が登場人物となっていきます。

前回の「アラン・スミシー」では、主人公は少年・少女でしたが、今回は少し主人公の年齢が上になります。

またおいおい紹介ページについても(作画にヒマがあったら)作成しようと思っています。ただ、今の段階では、コミケまで基本的にキツキツになりそうで怖いですが…。

上でも描きましたが、現在構想とプロットが大体固まった段階にあるので、これから実際の作業に入っていこうと思います。

今回のテーマについても、もしかしたらまたここで情報を出すこともあるかもしれませんが、私がここ数年生きてきて感じた/考えたことが色濃く反映された内容になっていく想定です。

それでは、もしコミケに無事受かり、かつ原稿が全て無事完了したら、イベントで会えることを楽しみにしながら、今日の記事はここで締めくくろうかと思います。


これからもillust_fumyuuをよろしくお願いいたします。










2014年8月25日月曜日

財布の小銭を減らすテクニックについて

私は、小銭を少なくするのが昔から得意であった。毎日細々した財を購入する場合、どうしても「消費税」という制度が絡んでくる。これは物品価格に対して数パーセントの割合で課されるもので、今年5%から8%になった今、その端数に関して、更に「細々した数字」とならざるを得ない状況があると思う。
で、そうなった場合何が問題になってくるかというと、財を購入するたび、「今財布の中に入っている小銭を削減する工夫」を行わないことには、例えば常に100円玉だけをレジに提出していたのでは、とたんに小銭入れは容量オーバーになり、財布はパンパンにふくらみ、持ち運ぶ際の重量も増えてくる。

私は、昔からこの「削減する工夫」を無意識的に行っていた。特に意識しなくとも、自分の小銭入れの内容と、レジに表示された金額、そして決済にかけられる時間(例えば混んだレジで悠長に支払い金額を吟味するのはマナー違反である)のバランスを考え、「限りなくベストに近いベターな支払い金額」を算出することができた。

しかし、ひとつ問題というか、気持ちが悪かったのは、この算出行為が、あまりにも私の無意識下で行われすぎていて、算出された支払い金額に対して、私がその計算経過を、ほぼ確実に説明することができなかったということだ。何となく支払いをした後で、あれ、この金額は何なんだ?と少し不安に思ったら、次の瞬間にレジに55円の表示が出ているなんてことはもう日常茶飯事である。

なので、今日はこの記事を用いて、それらの計算過程を意識的に洗い出し、整理すると同時に、財布内の小銭について悩んでいる人の助けになればと思っている。



さて、本題に入るが、まずこのテクニックを使用する上で、留意しておくべきポイントを数点示す。

①常に小銭が見えるようにしておくこと
 小銭入れの整理とは、すなわち端数の整理である。レジでの決済に使える時間というものは少なく、むしろ少ないからこそ、早く済ませようと思って、つい札を提示してしまうのである。テクニックの前段階として、常に小銭入れには小銭のみが入っている状態にしておくべきである。決済済みのレシート等が入っている場合、迅速な判断の妨げとなるため、即刻整理をし、また常にその状態にしておくべきである。

②「残金額」ではなく、「硬貨の枚数」で考える
 意識したいのが、「小銭を減らす」ということは、合計残額上、財布内の残額の1の位や10の位を排除するということではなく、物理的な硬貨の枚数を削減するという意味である。つまり、

 ②-1.優先的に使用するのはより単位の小さいものから
 当然ながら、500円、100円、50円、10円、5円、1円の順番で硬貨の単位は細かくなっていき、排除すべき硬貨の順番も、常にこの逆順となっている。つまりここから、更に下のように考えられる。

 ②-2.「5」単位の硬貨の活用
 ここで鍵となるのが、「500円」「50円」「5円」といった「5単位」の硬貨である。現在金額計算に用いられているのは当然10進数であり、つまり2桁以上、3桁以上の数字というものは、金額が表された時点でそれ以下の端数と自動的に、明確に区別され、もはやこれ以上整理の必要がないほど明らかなのである。つまりどういうことかというと、10円単位での「端数調整」は至極簡単なのである。106円の買い物であれば、「端数」は6円であり、これについて迷うことはほとんどない。そこで大切になってくるのが、「5単位」での端数調整なのである。

 ②-3.「1の位」から処理する
 10の位の端数よりも先に、1の位の端数について考えるべきである。1の位の端数を処理できてはじめて、10の位の端数処理にかかるべきだ。もし高度なテクニックとして、1の位の処理をせずに10の位の処理をしようとする場合においても、プロセスとして、「1の位の処理の可/不可の確認」は最もはじめになされるべきである。

③決済に可能な時間を考慮した「段階的な判断」
 支払いの際、小銭を減らそうとしてもたつくのはマナー違反だと考える。むしろもたつきたくないから結果的に小銭が増えていく、というのは上で書いた通りだが、つまりここからどのようなことが言えるかというと、支払いについて、これから使える時間を常に探りながら(つまりレジの係の袋詰めの進行度などに応じて)0からよりベターな方法に段階的に移っていく手法が求められる。例えば支払い金額が466円だったとして、はじめから466円を小銭入れから引っ張りだそうとして、もしちょうど払えるだけの小銭がなかったとして、その場合は1000円玉や500円玉を差し出すことになるわけだが、その判断は、よほど小銭入れの中身がきっちり整理されていない限り(あり得ないと思うが、各硬貨ごとに並んでいたりだとか)、手慣れたコンビニ店員が1つの商品をレジ袋に入れるまでの時間よりも長いはずである。このあたりの現場的な要素も考慮した上で、私たちはレジ前で振る舞う必要がある。


では、上記の点を踏まえた上で、以下の図のように、「思考のプロセス」を示そうと思う。
これは、決済金額が466円だった場合のプロセスである。


もちろん、ちょうど払えてしまえばそれが一番なので、最初に「一瞬だけ」そのことを考える。しかしこれは運がよければやりましょう程度のことで、一瞬でそう判断できなければ次の段階へ進んでよい。

ポイントとしてはその次の1手である。まず、支払額を満たす金額を、大きな括りで初めに提示してしまうのである。例として466円の支払いであれば、最初に500円玉を探す。なければ1000円を探す、なければ5000円…と、少しずつ大きくしていく。支払い行為は、基本的に債務額よりも大きな額を提示すればおつりが戻ってくるため、まずここで支払い条件を満たしてしまうことが大切なのである。

ここで、一度レジの係の動きを見る。もしまだ袋詰め等で時間を必要としそうだったら、次の段階に入る。
最初に注視すべきは1の位である。まずこの6円が払えるかどうかを見、5円玉と1円玉、もしくは1円玉が6枚ありそうかどうかを見る。そしてここからが更に重要になるのだが、もしそれらがなかった場合、(端数−1)円が払えないかどうかを見るのである。この場合であれば、「1円があるか?」ということになる。

最初に述べたが、この5円を考える吟味がとても重要になる。5円玉と1円玉5枚、もしくは50円玉と10円玉5枚では、枚数に5倍もの差がある。ここの吟味があるかないかで、整理の制度に大きく関わってくる。
例えばこのシーンで6円を払えず、466円に対して500円玉で支払った場合、帰ってくる釣り銭は34円となり、10円玉が3枚、1円玉が4枚と、ー1枚+7枚で、差し引き+6枚の増加になる。しかしここで501円とすることによって帰ってくる釣り銭は35円となり、10円玉3枚に5円玉1枚、−2枚+4枚で、差し引き+2枚の増加と、圧倒的な効果が生まれることになる…(圧倒的とは、たった1円の提示をする労力に対してという意味である!)。

ちなみに、この1の位の端数調整だけ意識しておけば、大抵、簡単な買い物であればレジの袋詰めが終わるため、これ以上の作業ができないことが多く、使用頻度と覚える労力のバランスとしては高いものになる。これからの作業は、更に時間があった場合にとりかかるものになっていく。


1の位の調整が終了したら、次に10の位に入る。ここでも同様の、(端数−5)の考え方が重要になってくるが、ひとつ気をつけたいのが、1の位を(端数−5)で調整した場合、繰り下がりがおこるため、1円多いものとして考える必要があるということである。幸い、繰り下がりには2以上の数字はあり得ないため、繰り下がるか繰り下がらないかの判断だけで済む。


ちなみに、ここまで行くと、現在の所持額に対して、ベストな支払額となる。例えば6円も60円もなかった場合でも、①最初に500円を提示 ②次に1円を提示 ③次に20円を提示 とたどっていくことで、支払額は「自然と」521円となっており、釣りは55円となり、枚数としては、(ー4+2)枚と、2枚の効果を調整によって減らすことができる。


☆位スキップテク
ちなみに、より応用的な方法として、「位の調整をスキップする」というテクニックもある。
右の図では、支払額273円を例にしているが、これは1の位の硬貨はほとんどないが、10円は大量に所持しており、1の位の調整をスキップして、10の位の調整に入りたい場合に使用する。

考え方としては簡単で、最初、同様に少し多めの金額を提示した後、1の位の調整時に、多めに刻んだ額を提示するのである。今回の3円であれば、5円もしくは10円を提示することで、調整をスキップし、次の位の調整に入ることができる。
(ちなみにこの位において、端数よりも少ない、ありったけの小銭を提示した場合、高い確率で戻ってくる硬貨が増えるため、そのような方法はおすすめしていない。費用対効果があまり芳しくないと考えるからだ)
調整をスキップした場合、次の位では繰り下がりについて考える必要はない。単純にその端数、もしくは(端数−5)*10の金額を提示することで、よりベターな支払額を提示することができる。




説明は以上である。これらのことに留意していけば、恐らく、そこまで財布の小銭がパンパンになるということはないはずである。
また最後に、できれば自動販売機等、相手がいない決済の場合は、出来る限り、ここで小さなお金、特に10円を消化することも大事になってくることを申し添える。



ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

2014年8月24日日曜日

普段の持ち物

普段、ぶらっと外に出ようと思ったとき、何を持っていくかが大体自分の中で確定してきたので、何となく対外的に語ってみようという気になった。

左上から右に、①iPhone4S ②abrAsusの「小さい財布」 ③モレスキンルールドノートのXSサイズ ④車や家のキーである。

①iPhone4Sは、好みの問題で、5系への変更は行わなかった。それなりの重量があるかわりに、強度が高いような気がする。アクセサリーは購入時、操作画面にマットフィルムを貼ってもらっているのみ。このまま4Sでも全く満足なのだが、最近はアプリケーションの遅さが気になってきたので、秋に6が出たら買い替える予定。

②abrAsusの「小さい財布」には大変お世話になっている。これを使い始めてから、財布を持ち運ぶにあたっての様々な煩わしさが一気に吹き飛んだ。カード入れもしくは小銭入れと見まごうような大きさだが、意識的に小銭を増やそうとしていた時期(例えばイベント出展前とか)以外、容量について苦心した覚えがほとんどない。そして、小銭を一時的に増やしたとしても、無理矢理押し込んでしまうと入ってしまうほどの容量がある。札も、普通に使っていた時と同じくらい入る。特に減らす努力をする必要がなかった。ただ、もちろん大量にレシート等を突っ込んで耐えられるスペースはない。しかしむしろ、これを使い始めたことによってレシートを溜め込む癖が自然となくなり、とてもすっきりした生活を送る習慣付けを行うことができた。

③モレスキンルールドノートについては、元々標準サイズのものを持ち歩いていたが、ジーンズのサイドポケットに入らなかったので、持ち歩くのに少しストレスがあった(尻のポケットに入れようとすると入るが、尻のポケットに入れると座るときに取り出さないといけないため、自分はここに何かを入れるのが基本的に嫌いである)。しかしひょんなことからモレスキンにXSサイズが存在することを知り、早速乗り換え、付属させるシャープペンシルも、手帳用のものに変えた(現在はぺんてるのQS55を使用しているが、どうもゼブラのTS-系のほうが全長が短いらしいので、機会があればそちらを試してみたいと思っている。見ての通り、少しノック部分がノートからはみ出している)。これが大当たりで、持ち運びに関してのストレスがぐっと減った。また、このサイズは仕事では、1ページあたりの面積があまりにも少なすぎて使えないと感じたが、普段使いで使用する分には全く問題ないサイズだった。
ちなみに、モレスキンには背表紙に簡単な収納ポケットがついており、ここにスリーエムの透明見出しを入れている。これも非常にハンディな製品で、立ちながら付箋を取り出し、見出しを記入し、貼付けることができ、大変に重宝している。

④キー。これは言わずもがな。できれば、もう少し良いデザインのキーケース等があれば使いたいので、気が向いたら探してみたいと思っているが、機能的に特に今不満点はない。


以上である。特にこれを紹介することで何かの効果を狙っているわけではないが、何かが上手く行くと、人はそれを皆に自慢したくなるものだと思っている。そういう趣旨の記事だと思ってもらえれば嬉しい。

2014年8月18日月曜日

C86結果報告と雑感

とりあえず、私のコミケは終わり、無事住処へと帰ってきました。ブースまで足を運んでいただいた方々、とても嬉しかったです。ありがとうございます。
とりあえず、色々と今回の反省や所見を書いて行きたいと思います。

まず結果から言うと、売り子を手伝ってくれた人たちのおかげもあり、無事完売しました。20部という少部数のおかげで完売しても収支はかなりのマイナスでしたが、在庫を抱えないという意味では、かなり部数の判断としては的確だったのかなと思います。今後は限られた部数を冊子で配布し、その後はwebを使用してデータ形式で売って行くスタイルを確立しくべきかなと思っています。

次に、作品の内容についてです。
まず、刷り上がった自分の作品を見てみた感じ、パッと下記2点の印象を得ました。

1.線が汚い
2.思った以上にタチキリ等の範囲が広く、想定したよりも更にザックリと切られてしまった

1.については、丁寧さを失った中盤戦で特に感じました。終盤の絵では、背景に少しそれを感じました。やはり気を抜くとそれはそのまま絵に現れ、手を抜くことは直でクオリティダウンに繋がる現実を目の当たりにしました。また、初期の絵柄は丁寧さを読み取ることができましたが、線が細すぎて、印刷の際にハッキリした黒線になっていませんでした。絵柄的にはやはり、最終盤あたりのものを、今後採用して行くべきだと思いました。

初期の絵柄については、グレスケ階調を多く用いて、丁寧に描いている印象を(私の絵の中では比較的)受けましたが、機能美的な、省略して行く美しさを考えると、やはり漫画絵としては、私の求める方向ではないような気がします。漫画は、やはり限りなく、白黒2値のみで全てを表現されるべきなのです(という主義の方向性を固めました)。


2.については、厳密に寸法を計算していたはずでもこうなってしまっていたので、次からは、意識的に主要なものをページの中央に配置して行くことで、イメージよりも多くタチキリされてしまった場合(それは、断ち切られたくない対象が真っ白なスペースである場合も含む)への対応としたいと思いました。まあこの点については、意識の留意だけでいいので、作画のクオリティほど意識を割く必要がないと考えました。


その他気づいたことを下に列挙。

・カラーの絵柄について
ここ半年近くは、「アラン・スミシー」で一度完成された絵柄を、FireAlpacaでの魅力的な書き味を最大限に活かすべく、根本から見直したものになっていました。しかし、二つを並べて見たところ、完成度や私の根幹にあるものと見比べ、やはり「アラン・スミシー」の絵柄の方向性こそが、私の目指すべきところであったと再確認しました。
いわば「変則アニメ塗り」と言ったらいいのか、そういう塗り方ですが、この塗り方は彩度の低い色の微妙な変化もアニメ塗りの硬いエッジにより鮮明化するため、非常に私が好む色を詰め込みやすいのと、強い省略性を内包するためシンプルを愛する私の好みに合うこと、線画がほぼそのまま完成品の景色になるため、線画に手を抜けず、結果クオリティの下限に好ましい縛りが生まれる等、数々の利点が存在するように感じています。
今後はこの塗り方にFireAlpacaが持つラフの描きやすさ、Photoshopの豊富なブラシといった利点、そして今回の漫画絵による経験値を加えたものにしていこうと思います。一度行ったところにまた確信を持って戻ってきたため、もうまたこれで揺らぐことはないと思いたいのですが………絵柄の選択というものはどうにも悩ましいですね。自分の絵というものは常にどこかが気に入らないものなのかもしれないと思い始めました。


あと、ブース設置についても、次回、色々と工夫してみようと思いました。まず、色々と小物を配置する方向性を自分の中で完全に排除しました。灰色の布と、作品、そしてポスターがあれば充分です。そして、次回はこの構成にプラスして、よく書店等で書かれているような販促POPを自分で作ってみようと思いました。そこにはillust_fumyuuの新刊が持つ魅力を端的に記し、チラ見した人に、うちのサークルがどのような売りを持った作品を配布しているのか、明瞭にわかるようにしたいと思っています。昔はそれを書くことができませんでしたが、今なら、それを書けるものを作ることができるようになっています(実力的な話ではなく、自分が、自分の作品において表現したいものを、自分の中で明確に整理した上で作品を作れるようになってきたという意味です)。

また、当日のブース用物資についても計画的に宅配便で送り、できればキャリーをもたなくても良くなるよう、段取りをできればと思っています。キャリーを持って移動するのはやはり少し億劫だし、段取りにスマートさを感じません。


冬コミは創作で出ます。アラン・スミシーの方向性で第二弾、やります。そして、その前にひとつ、関西のイベントに出られればと思っています。今回はスキルアップのため、二次創作の漫画に浮気しましたが(二次創作も結構楽しかったので、一年に一度はやってもいいかも)、これから本職である創作に、全霊をかけて行きたいと思います。

それでは今後とも、illust_fumyuuをよろしくお願いいたします。

2014年7月28日月曜日

コミックマーケット86への出展について

8月15日、C86の1日目に出展します。

内容は…半年くらい前まで、頑張って記事を更新しておきながらぱったりやんでしまった「GE2」の漫画です。本文は一応26ページあります。全年齢です。

スペースは、S-51a "illust_fumyuu"です。

内容は、エリナと主人公の関係を描いたものになっています。内容については、直接会場まで足をお運びいただけると幸いです。



以前の記事でもお話していたとおり、今回は、漫画が描けないという状態を克服するために計画したことでした。当初の計画から大きくオーバーし、半年もの月日を注ぐことになってしまいましたが、それでも、得たものは大きかったと思っています。

まず、漫画特有のモノクロ絵について、自分のものになったと思えるほど、「慣れ」が生じたこと、また、「身体の一部分を描写する」ことに慣れたことも大きいです。また、背景についても、未熟ながら何枚も描くことになったため、それなりに「慣れ」が生じた感覚もあります。漫画における背景描写は、本当に難しいものがあると思います。これを安定して作画することができたら、もう作画面で何も怖いものはなく、安心してお話作りに注力できるのでしょう。


恐らくそれほど売れないと思うので、持ち運びも考えた極小部数しか刷りませんので、できれば完売を目指せたらなあと思います。二次創作での出展は実は今回が初めてなので、どれだけ私の作品に興味を持っていただけるか、正直自信のないところではあるのですが(エロでもないし…)、とりあえず今回もそれなりに達成感はあるので、そこそこの自信をもって、本をおすすめしていけたらなと思っています。


なお、前作である「アラン・スミシー」も持って行こうと思います。
これについてはオリジナルのイラスト集であり、1年前のコミティア用に作成した宣伝用のページが存在します。イラスト集でありながら、全体でひとつの「おはなし」が構成されているという、私のサークルの基本(にしようとしている)となる作品だと思っています。こちらも興味がありましたら併せてぜひ。在庫がいっぱいありますので(小声)。そっと隅に置いておこうと思います。


それでは当日、縁がありましたらよろしくお願い致します。


2014年7月26日土曜日

マール王国の人形姫・プレイ感想+α

表題のゲームを、アーカイブズを利用して再度プレイしてみた。

このゲームは多分小学生くらいのときにプレイしたいなと思って当時はできなくて、また少し経ってからPSPか何かでプレイして、そのときはラストのマージョリー一家がどうしても倒せなくて積んでしまった記憶がある。

今回は、計画的に育成し、ナイトスポーノを早い段階から取得し育て、他の2人形についても、シャルテを固定し、最後のひとりのアルバトロスについても比較的早い段階からパーティに入れたことで、安定して全てのボスをひねれた。終盤はぬるいくらいで作業感すらあった。

以前やってて詰まったのはPSP版で、そのときはアーカイブスで配布されてる最初期のPS版とは少し違う戦闘システムだったような記憶があるのだが、PSPはディスクがどこかに消えてしまったので(管理能力がない)、確かめることができなかった…が、育成のミスは、多分、パーティメンバーをコロコロ変え、最終的にレベル不足になっていたことだったような気がするので、今回のプレイではそれを気をつけ、安定してクリアできたというわけだ。

攻略も見ながら、結構な数の人形を天国に送ったが、テラとフレールとカエルは解放せずに終わった。別に頑張れば解放は出来るし、頑張ろうかと思ったが、どうしても通常プレイの流れの他にレベリングするのがめんどくさくて、まあいいやと思ってやめた。


ドット絵と柔らかな背景と、それらが構成する世界観、ミニマムだが完成度の高いシナリオから、やはり良作であると思った。現在、継続して2をプレイしている。3についてはアーカイブズ配信はないが、どこかでPS2のソフトをゲットして来て、ぜひ3部作全てをコンプしたいと思っている。ただ、3はシェリーの話らしいので、正直ためらうのも事実だが…(鬱ENDとわかっていると少しためらってしまう)。

日本一ソフトウェアのソフトはラ・ピュセルで知った。世界観やシステムが楽しく、しかし戦闘がシビアで、これもラスダンで投げたような記憶がある。どうしてもやりこむようなゲームを最後まで頑張れないので、ディスガイアはずっと忌避していたのだが、3rに少しだけ興味が出てきたので、もしかしたらそちらに、早々に浮気をするかもしれない。


最近、「描かれた背景の中をキャラクターが動く」タイプの、一昔前のゲームのグラにどこかかけがえのないものを感じ、積極的にプレイしている。私が昔自然と好きで、今見失っているものを、そこから再発見できるかもしれない。そんな思いから、私は今、「少し昔のゲーム」を漁る日々を送っている(ディスガイアは「最近のゲーム」だが、そのコンセプトとしては、自分が求めるものと大差ないものがまだ残っているように感じる)。

2014年7月25日金曜日

終わっていく話

外食は、空気感を楽しむこともその目的のひとつに入っていると思う。

ことに自分は一人で外食をすることが多く、その行き先は、料理の味そのものよりも、その店が持つ空気感のようなものによって選択されているような気がする。


「もうすぐつぶれそうな店」はよくわかる。もちろんこれは、私がそういう嗅覚に優れているということでもなんでもなく、以下の三つの情報から、誰でも判別しているものだと思う。

1.料理がそこまで美味しくない
2.かきいれ時なのに席がガラガラ
3.従業員に覇気がない

1.の「料理が美味しくない」のは、やっぱり食べた瞬間にわかる。何だか、美味しいのか美味しくないのかよくわからないような味であることが多いような気がする。それなりに客足がある店は、ファストフードも含めて、そのあたりの方向性が洗練されているように感じる。

2.は言うまでもなし。

3.は、多分これは、バイトの身分の従業員も、何となく自分の勤め先が「ヤバい」のを感じていて、次の職場や身の振り方に思いを馳せながら仕事をしているからなのではないだろうか。どこか上の空で、マニュアルにただ従って時間を消化しているような感覚がある。


この文章の結論を言うと、私はこのような特徴を持つ店に足しげく通う習性がある。
それは昔からずっとだ。

冒頭で、外食は空気感を楽しむ部分があると述べたが、私にとって、上記のような「終わっていく感じ」はとても心休まるものだ。

自分の客としての価値を高めようという打算とは違うと思う。私は勢いに乗っている店のように、全力で自分に対してお仕えして欲しい訳ではない。かといって、自分主導で、客として何か店の方針に従わされるような感覚を味わいたい訳でもない。

風化していく雰囲気というものは、実に機械的で落ち着く。従業員が何かしらやりがいを感じているような雰囲気の店は、熱中症におかされたように、気持ち悪くなって、身体の力が抜け、食欲を衰退させる。


私は虚空を噛み締めたい。白い灰が舞うような乾いた空気の中、ただそこにあるだけの自分の心を感じていたい。

かくして、私は「行きつけの店」を、大体ひと月ごとに変えるはめになる。終わりかけの店、終幕に向かう予兆、私はまるで自分の体内にいるかのように、穏やかな気持ちで食事を楽しむことができる。

2014年3月3日月曜日

何のために絵を描くのか どんな絵を描きたいのか の話

GE漫画は1ページも進んでないので今週はブログもお休み


関係ないが、自分が描きたい絵というものの最終的な方向性が見えてきたような気がしたのでここに記しておく。


私が描きたいのは多分、日常的な生活の中で感じた、言語化しづらい概念、感じた気持ちを言葉で調理する前の段階、そういった掴みきれないものを、ある程度生でアツアツのまま、自分の外に記録するものなんだと気づいた気がした。

少しまえ、私はイラストに文章をつけようとした。しかし、どうもしっくりきていなかったが、その原因がようやく判明するに至った気がした。

言語化できるものは言語化したらいいだけの話であったのだ。しかし、それでは足りない「何か」が存在しているはずだった。それは、そのイメージというか、感情が、概念としてどんな色を持っているか、どのような流れで、どのような儚さを持っているか、それを、直接的に表現できるのが自分にとってのイラストだと思った。


私は今後、イラストに、現実世界ではあり得ないようなオブジェクトを色々と提案していきたいと思っている。それは夢であり、私という描き手の世界観そのものであり、煮え切らない今現在、生の感情である。なかなか言葉では掴みきれないが、そういったものを表現するために、私はイラストを道具として使っていきたいと思う。


私はかつて、うまく描きたかった。それはわかりやすい目標で、情熱を傾けやすかったが、それではダメな気がして、ずっと悩んできた。そしてその悩みは、最終的に自分とは何なのかというところにつながっていく性質の悩みだった。私はそれから目をそむけたかった。しかし、ある一定の段階から、それは避けては通れないものに変わっていった。


まどろっこしい言葉を紡がなくても、キャンバス上に発現する、私の繊細な心的世界というものが、確かにあるはずだと思う。私はそれが見たい。ほかならぬ自分自身が見たい。


イラストは生活に寄り添っているべきで、自分にできるのはきっとそれくらいだろうと考え始めた。私のイラストは、もっともっと素朴は方向に進んでいくような気がする。


まあ何はともあれ、夏用の漫画を完成させなければならない。その時、余裕があれば、オリジナルのイラスト集も隣に添えられればいいなと思い立ったところである。

2014年2月24日月曜日

要素を分けて考える思考について

往々にして思うのは、人は何かを思考するとき、要素ごとに細分化して思考することがあるなーということで、これこそが人間が、公平性を持って何かの物事を見ることができる数少ない方法のひとつだと最近思うようになった。

ここしばらくでいろいろと、小さいながらも出来事があった。

まずひとつは、自身の周囲でなされている評価と、それに対しての立ち回り、そしてその立ち回りへの論理性を脳で自動的に折衷して、本人もその自覚がないかのような自意識に遭遇したこと、そしてとある人が、創作者の、創作物に評価を受けることと、その人の人格への評価をごっちゃにしている要素を痛烈に指摘していたことだった。

人間というのは最終的には一つの個体に帰結するが、その帰結する前の要素については多くのものがあると思う。例えばそれが好きか嫌いかとか、正義か悪かとか、社会上の通念に即しているかとか、色々あると思うし、最終的に人間がひとつの行動をすることになったとして、それを理解し人と人とが付き合うためには数多くの要素についてそれぞれ考察し分析し自分なりの答えを出すことが、成熟した大人の付き合い方なのではないかと考える。

自分などまだ子供だと思ってしまう自分がいる。何せ少し前(自分の感覚の中では)までは子供だったのだから、そのときの意識を今も引きずっている。当時触れていた作品やものは、今でも懐かしいと思うし、当時感じていたことが延々と思い出される。

まあそれはさておくとして、思考するにあたって、物事の要素を細分化してそれぞれ考えていく動きは、とてもエネルギーがいるものだな、ということが最終的には言いたかった。私など、大体が直感を信じて生きているし、直感なんてものは、自分が自分の意識の中ですべき分析行動を脳みそに丸投げしている状態なので、悪く言えばかなり無責任な思考と考えることもできると思う。

例えばAさんが嫌い、と直感で思ったとして、しかし何故その人が嫌いなのかと考えたとき、それはひとつの要素が決め手になっていることが多いのではないかと思う。それはまあ以前に受けた恥ずかしめとか、口臭が我慢ならないとか、基本的な行動理念とか、色々あるだろう。ただ、それが、社会的な要素によってそう「考えさせられている」場合もあると、私は思う。それはいじめを発現させるひとつの要素である。

人は大人になって、社会性を身につける。当然守るべきマナーは当然のように守られていくし、そのように成長し、やがて社会を構成するひとりとなる。社会性とは、たくさんの人とつながっていくこととそう変わらないと思う。そしてその中で、社会性を踏まえた立ち回りを自然と習得していく。習得できない者は疎外される。

近づいてはいけない人間というものが生まれる。それは疎外された人間であり、危険因子である。危険因子は、「当然守るべきマナー」の中で、「とってはいけない思考」をする人間である。そういった人間に生理的嫌悪感を抱くようになったとき、人は大人になるのかもしれないと思った。これが、今日言いたかった大枠のひとつ。


もうひとつは……先ほども少し出したが、自分が残した業績、作品と、その大本となった人間の人格についてだ。自分が何か大きなことをしたということ、もしくはすばらしい作品を生み出したこと、その評価に対して、自分の人格が優れていると誤認し、人格者として振る舞うことは、(これはある人の意見の引用を含んでいるが)かなり滑稽だ。押し付けがましい。何か強大な力に操られる手先のようで、ぺらぺらだ。そして、自分もそうなりそうで怖い。

ここまで書いて、まだこのことは私の頭の中でよく整理されておらず、文章に落とし込むの尚早だと思い始めた。ただここから思うのは、物事をひとつひとつ細分化してそれぞれ評価する思考は、確実に人を死に近づけるということだった。分析しすぎる思考には、何だか荒廃した世界に吹くような乾いた風を感じた。人生は何も面白くないのだと悟ってしまいそうだ。

あまり考えをめぐらすことは辞めた方がいいのかもしれない。私は、よくアニメを見る人たちが言っている、「何も考えずに見られるものが良い」という言葉の意味が、段々理解できるような気になって来た。頭を空っぽにする瞬間は必要だ。人生は夢幻のごとくなり。冷静に考えて、何も楽しいことなどない。常に冷静に考えていては、生きてはいけない。

GE2漫画描くぞプロジェクト 6週目

また1ページだけ進めました。
もう1ページの進行でいい気がしてきた(薄弱)。

とりあえず感じたことは特に無いですが、FireAlpacaとSAIを連携することが現状ではベストのように思えた。

FireAlpacaは優秀な機能がたくさんついているが、やはりSAIの筆ツールの使い勝手は他には代えがたいものがあると感じた。当分、2ツール感を行き来しながら作業を進めていくことになると思う。

これ以外に、FireAlpacaでの落書きと、鉛筆絵を少し練習し始めた。鉛筆の絵は、絵を描くことがどれだけ手軽で難しいか、その原点を教えてくれるような気がして、とても新鮮な体験で楽しい。

コンピュータで描くことと比べて、鉛筆絵は、補助的なツールにおいて、はるかに多くの画材を必要とするような気がする。鉛筆絵を描くにしても、やはり練り消しと、いくつかの種類の濃度の鉛筆は必要だし、(本当は色鉛筆用のツールだと思うが)ブレンダーを使うと更に色々と効果が出て楽しい。


FireAlpacaで今日落書きをしていて思ったのは、自分のイメージをPC画面に落とすことについて、ずいぶんと怖さがなくなってきたなと思うことだった。今までの自分の人生の色々な体験を考えると、どうにも自分には、何か物事について自分の、なんと表現したらいいのかがわからない部分があるが、意思に基づいた第一歩を踏み出す時、自分がやろうとしていることの全貌を理解するまでは一歩踏み出せない性質があるように思えた。絵の密度を増やしていくことに対する怯えは、まさにそこから来ていると思う。それが解消されてきたということは、私の、これからの可能性を示唆するものだと考えていいと思っている。

私はかつて、ポケモンをプレイしている時(当時小学生)、自分にはミュウツーまで辿り着き、ゲットすることは無理だとこころのどこかで諦めていた。しかし、弟はそれを自然に克服し、ハナダのどうくつをクリアするのは、私よりも速かった。そのことは、実は私の心に深く残っている。

そもそもが不器用なんだと感じた。だから、ようやく私は一歩を踏みだそうとしているような気がする。私はもっと積極的になるべきだし、もっと自分に自信を持つべきなのだと思った。
絵は、色々なことを教えてくれる。クオリティの面では全然だが、私が人生を送る上で、絵を描くことが私にくれた恩恵は大きい。



また、最近は無気力を解消するために、映画をレンタルして見ることが多い。そのときにも感じたのだが、私は新しいものを自分の中に取り入れることに抵抗を感じる部分が多いようだ。いつまでも同じものを愛でていたい特質があるようだった。私はこの、「映画を見る」ということを通して、少しでも、自分の魂を外に開いていきたい。そして将来的には、アニメを、習慣的に見られるような体になりたい。

とりあえず今日は以上である。
ライフスタイルを、漫画の完成のみにするのではなく、漫画制作を並行的に行うことで、より重厚にするという方向に転換していきたい(決して逃げではないよ!(逃げかも知れないが))。

2014年2月16日日曜日

GE2漫画描くぞプロジェクト・5週目

残念ながら1ページも進んでいない。
順調にモチベーションは下がってきている。

生活そのものが荒んできている。毎日妙な寂しさに心が侵食されているし、何をする気もおきない。しなければならないことはたくさん積まれているが、それをするための精神エネルギーがゴッソリ枯渇してしまっている。

そろそろ「反転」があってもおかしくないと思う。躁状態になって一気に筆を進めて、生活もしっかりとメリハリのつくものにしたい。しかし、どうしてもそのようにできない。歯車は噛み合っていない。


ただ、絵自体には動きはあった。ツールを変えようという決断をした。本格的に作業をFireAlpacaですることにした。
理由は、文字入れツールが存在し、1つのツールで全てが完結すること、またラフが描きやすいこと、パース定規が存在すること等、色々と考えた結果、もうコレ以上SAIを使う意味が、自分にはないと考えたからだ。そして、そうしたことで、多少の作画への影響があるかと思う。


また、少し思い立って、アナログ用の鉛筆を購入してみた。やはり予想以上に鉛筆での作画は難しく、キャラを1体描くだけで、すさまじいエネルギーを消耗すると同時に、自分はアナログでは本当に何にもできないと知った。それがまあ、それなりにスランプ?に突入していく結果なのかもしれない。


情けない話だが、一人暮らしの部屋で、友達も存在せず、作画の作業をしてもほとんど反応が実感できない状況だと感じてしまい、「自分がこんな作業を一笑懸命して何の意味があるのか」ということを痛切に考えてしまう自分がいる。そもそも絵は自分の趣味のため、楽しみのためにやっているはずなのに、「こんなことをしても所詮は無駄なのだ」という思いが、つねに私の足を後ろへ後ろへと引っ張っていく。

ぶっちゃけた話、私の、絵描きとしての人脈(とまで言えるレベルではないが)と、人気といったものは、そういったワードが泣いてしまうほど希薄で、イベントに出店したところで、売れる本は知り合いを除けば1~2部、そのために何ヶ月もしんどい思いをして(もちろんしんどいだけではないが…)、多額の金を支払って、本を作成することそのものへの意味が、私の中で感じられない。「そういったことをする」ことがそもそも意味があると考えてきたが、色々とうまくいかない状況下では、どうしてもそういうことを考えてしまうのだ。


とはいえ、既に申し込みは済ませてしまったので、あとはやるしかない。正直、やるしかないことが唯一の救いである。今このようにして何かを成し遂げようとすることそのものが、意味があるといえるのかどうか、もう私にはわからないが、とりあえずやろうと思う。自分の心の中にある、キャラクターやゲームへの愛にだけは、真摯に、真摯にやっていきたい。吹けば消えてしまうほどの小さな炎だが、薪をくべて、うちわで仰いで、風を遮って、ゆっくり、ゆっくりと育てていきたいのだ。

これが消えてしまえば、私が生きている意味がなくなりかねないのだから。

2014年2月10日月曜日

GE2漫画描くぞプロジェクト・4週目

今週もまた1ページしか進まなかった。

正直、モチベーションはかなり苦しいところまで来ている。


しかし、それなりに、感覚的なところで成果は感じる。それこそトレーニングの成果っぽい感じで。

何かものを描く上でのエイヤー感はかなり鍛えられているような気がする。何だか産廃をいっぱい生み出してしまいそうだが、結局、うまくなるには描きまくるしかないわけで、長期的な視点で見れば、それはきっといいことだと言えるんだと思う。


整合性云々はまあ、とりあえずさておこうという覚悟ができた。どうせ今ある実力の絵しか描けないのだ。勢いというものも大事だ。そう思えるようになった。


あと、ついにC86への申し込み手続きが完了した。
正直、カットを描くのは、前代未聞で楽だった。モノクロと、あと身体の一部分のみを描画することへの「慣れ」はかなりのところまで来ている。もうこのジャンルで申し込んでしまったし、あとはやるだけである。



気づいたところを2点だけ上げておこうと思う。


・金属の描き方は、ベタと白ハイライト
当たり前だが、金属は強く光を反射するので、コントラストを高く描くとそれっぽくなる。で、それにはハイライトとベタを用いるのが最良だと私は思うのだが、これをもう少し突き詰めると、他の素材で、白と黒ベタで陰影をつけるのが正しいのかどうかという考えに進んでくる。

正直、あまり好きではない。白飛びして何かよくわからなくなるし、だからこそ、細部がごまかされて描く側に有利という大きな魅力があるが、果たしてそれをすべきなのか? 私はそれを気にする必要があるほどのレベルには到底達していないが、そのことを考えながら描いていくことは良いことだと思う。


・線を太くするか?
これはイラストの時から気になっていたが、私はキャラの線は細く、背景の線は太くなってしまう性質がある。これは単純に描いた数の量が影響していると思うのだが、今の状態はあまりよくないように思える。細い線はウェイトに欠け、視認性が欠如しているから、漫画として描かれる絵としてはあまり良いものに思えない。そして、背景の線を細くしようとすると、現段階ではもう一手間がどうしても必要になる。
総合して考えた結果、私は、これからは少しずつキャラの線を太く描いたほうが良い、と思った。もっと言うなら、イラスト時にも、実はその線の太さは欲しい。私は、もっと自信を持って線を引くように意識し、また引けるような力を自分の中で醸成すべきだ。


以上である。


ちなみに、最近FireAlpacaを本格的に使い出した。主に落書きだけだが、これがなかなか落書きに適していて楽しい。また、こちらのツールで描くと、基本的に線を最後に確定させる、いわゆる厚塗り的な手順になるため、漫画の作画をしながら、息抜きに落書きをすることができる。

FireAlpacaの良いところは、Photoshopやdrawrである、「段階的な鉛筆ブラシ」が使えるところにあると思う。つまり、半透明で描いた時に下の色が全くにじまない書き味のことを指すが、このブラシが私はとても好きで、とても描きやすいと思っている。コントロールもし易いし、何より、とても論理的に作画できる。そして手軽なパース定規も、私にとっては魅力的なツールである。
これと、sai的な「下が混ざるブラシ」を持ち、更にシンプルで軽い。そしてMacでも使える。大変魅力的なツールだと思う。今はまだショートカットキーに慣れているところで、簡単なものしか描けていないが、そのうちちゃんとした完成品もアップ出来たらと思う。


なお、ゲームそのものに関してだが、こちらもそれなりに上達しているように思う。というか、もしかしたらこのブログでゲームのプレイ記録に言及するのは初めてかもしれない。

私は基本的にハンマー/スナイパーの形態と、スピア/ブラストの形態を併用し、ステージによって使い分けている。どちらもダメージソースはガンモードで、スナイパーはアルバ長距離弾、ブラストはメテオ弾、抗重力弾を利用した高火力弾で主にダメージを稼いでいる。

簡単に現在のプレイ記録を説明すると、現在、
難易度10でパフェ2つ、ノーアイテム10個、
難易度9でパフェ1つ、ノーアイテム7個、
難易度8でパフェ3つ、ノーアイテム18個、
DLCでノーアイテム11個

といった具合である。
またこちらのほうも、機会があったら記事にしていきたい。

今回は以上である。また次回の記事もよろしくお願いしたいです。

2014年2月3日月曜日

GE2漫画描くぞプロジェクト・3週目

今週は1ページしか進めていない。
なかなかキテるな、と思ってしまった。
次週はこのようなことがないよう、しっかりとやっていきたい。

当然、感じたことも少ない。

右のようなイラストの他に、楽描きをちょろちょろやっていたが、正直そんなことをしているヒマはなかったと思っている。
ちなみに、右のイラストの人間、性別は男である(ショタと美少女の描き分けができない)。

背景に対しての苦手意識はだいぶ払拭されたように思う。実は、イラストで背景を想像だけで描こうとしてみた。それなりに描けた。まあ、整合性がぐしゃぐしゃで、結局前消しすることになってしまったが。また、キャラクターも、より流れにそって描けるようになった。全体の作画時間は短縮されたが、細部を犠牲にしているため、これがイラストを描く上でいいことなのかはわからない。
しかし、確実に「絵を描くこと」を、自分の自然な行為として身体に染み込ませることに、成功しているようにも感じる。


・キャラの厚みが足りない
今回気づいたのはこの点のみ。
基本的に、私の線は細い。一本の線で主張するよりも、細い線を何本も積み重ねて描画していくタイプだと思う。が、それが、イラストでは塗りでカバーできたが、漫画では、キャラクターが嫌に希薄に見える結果を招いているように思う。これについては、やはりキャラの作画の色々なところにベタを入れ、キャラに「厚み」を持たせるのがいいのだと思うが、だがベタを使いすぎるとなんだか視認性が悪くなるような気がして、ここのところをどうするか、考えながら今後作画していきたい。


以上。だいぶ作業はマンネリ化してきて、苦しい時期に突入してきてると思う。一応ブログは書こうと思っていたが、正直書き始めのときに、今週の怠慢を後悔した。この気持ちを忘れず、来週は心を引き締め、確実にノルマの3ページをこなしたい。

2014年1月29日水曜日

死にたい夜に

何をやってもうまく行かないときってのは、やっぱりあると思う。
そして、意味もなく消えてしまいたい、しかし胸は妙にうずく、そんな時もあると思う。
というか今がそれである。

こういう時、割と私はよく経験する。そして経験上、もう少し言わせてもらうのであれば、この状態の直接的な原因は、大抵寝不足である。
非常にざっくり極まりない考察だが、経験上、私は結局のところ、これにつきると思っている。

まあそれが頭でわかっていれば、じゃあ早く寝ろよという話だが、それもそううまく行かないのがこの状態の厄介なところで、割とエネルギー自体はそれなりに湧いてくるのである。だから、何だか色々とやってみたりする。しかし、注意力が散漫であり、結構イライラしたりもしたりしてるので、大抵のことはうまくいかない。うまくいかないと更にイライラする。イライラを解消しようとして何か別のことをしようとする。そしてそれもうまくいかない。うまくいった試しがない。泥沼である。

私は、そんな気持ちをBlogに書き、記録してみることにした。

何もかもがうまくいかない。思えば私の人生はそんなことばかりだったし、きっとこれからもそうだ。私には、決定的に、何か熱いものが足りない。どこか冷めている。そんな自分を哀れに思い、悲しんでいる。こう書くと何だか、いわゆる中二病を引きずっているようにも見えるが、実際引きずっているんだと思う。私には、この世界を本当に愛するきっかけがまだ訪れていない。

何かを、常に憎んでいるような気がする。それはこの世界だったり、自分だったり、他人をけしかける何かだったり、いろいろだが、常にむなしさを抱えているような気はする。

ただひたすらに、むなしさを抱えている。この先に何があるのか、正直もうどうでもよくなる。灰色の世界が、白い光の中に粉となって霧散していく。

何かにずっと縛られている。もうそろそろ解放して欲しい。自分は大空に飛び立てるとまだ思っている。そんなはずはない。鎖が、逆説的に自分の明るい未来を、今あるべきものとして感じさせてくれる。永遠に封印された明るい未来を。私は鎖を憎む。あるはずのない鎖を憎む。

きっとこの先に何もありはしないのだ。種火のようにぽっ、ぽっと時折発生する、何かを期待させる無責任な幻、それに私の瞳はチラチラ、チラチラと惑わされて、本質を見失っていく。ありもしない本質を見失っていく。

結局は、魂が熱く燃えるかどうかだ。そんな気もする。ぐっすり寝て、魂が回復したら、全てがうまくいくさ。なんて空しいんだろう。本質から遠ざかっていく。核となる幸せはどこだ。

今この心境だから見えるものがある。圧倒的な虚無と、自分の心が身体のどこにあるか、知らしめてくれる痛覚がある。心が痛んで、そのとき初めて、自分の心の位置がわかる。心とは、身体のどこかに、やはり物理的に存在するのか。

思ったことを口に出来ない。自分の口べたさ、社会的な誓約、気恥ずかしさ、自分ルール、そのようなあまたの要素が、私が思ったこと、口にすることに適当/不適当の判定を下し、私の心と魂を圧迫する。

全てに意味なんてない。意味はきっと魂の炎が決める。意味なんてない。魂はどこか別の次元に存在する。常に空虚だ。

眠い。全ての苦痛が、「眠気」に収斂していったとき、私は初めて安心できる。ようやく眠れるんだと。罪はきっと終わったのだ。罰は終わったのだ。

うまく行かない。何もかもがうまくいかない。私の人生は、こんなんじゃなかった。私が私に課した数多の試練は、今この状態のために用意されたものではなかった。

ひたすらに寂しい。私は世界から取り残された。心は切り離された。世界は、私を拒否した。

光。光が欲しい。光と温もりが。

思い切り泣きたい。残念なことに、私は泣くほど悲しくない。これがたまらなく悲しい。真綿で首をじわじわ締め付けられている。

この世は、残酷なまでに平坦なのに、一歩道を外れたら、そこには奈落が存在している。実際は存在していないのかもしれない。奈落は、臆病な私が想像した幻かもしれない。

不甲斐ない。私には何もできない。何も、何も出来ない。

死にたい。でも死ぬのは怖い。生きたくない。私は生きたくないんだ。

2014年1月27日月曜日

GE2漫画描くぞプロジェクト・2週目〜イラスト専が漫画に挑むよ〜

とりあえず、5ページ目が途中の段階まで進めた。
以前の記事にあげた、全体計画からは遅れているものの、これは1週目に生じた遅れであり、取り返せはしていないものの、今週分に関しては、確実にノルマ分を消化したと言える。

漫画を書く感覚自体も、反復とともに徐々に変わってきているように感じる。具体的には、早く描くことに慣れた。それから、イメージをそのまま落としこむ感覚が鮮明になってきた。イラストとは違うトレーニングが脳内で行われている感覚がある。
正直、1週間3ページのノルマは現時点ではきついが、慣れと能力の向上により、これから作業の時間が短縮されることを想定すると、我ながら良い目標設定だと感じたりもする。


さて、今回も、作画の中で感じたことを下に列挙する。


・線をどの程度綺麗に書くか
これはイラストでも感じたことだが、何も全てをベクターレベルにきれいな線で描く必要はないということだ。
もちろん、線は綺麗に越したことはないが、縮小されて見えないようなところまで、線を綺麗に処理しようとすることは時間の無駄である。
自分の作画を踏まえて、自分の家にあった、市販されている単行本を眺めたが、結構線は荒い人もいた。まあ、だからといって自分が荒くてもいいよと思うわけではなく(実際は荒い人は一部であり、またこれも丁寧に処理をしようとした結果だろうし)、有り体な話になるが、「注視度」によって丁寧さのレベルを変えていくことが求められるのだろうな、と。つまり、よく見られる顔アップの表情なんかは丁寧さをよく意識し、遠景の背景なんかは、そこまで整っている必要はない、みたいな…。といっても、まつ毛なんかは、私はそれなりに荒れていたほうがそれっぽさが出ると思っているし、実際にそれにもとづいて描いている。まあこれについては、もしかしたらかなり感覚的な話として理解したほうが適当なのかもしれないが、ザクっと結論付けるのならば、線を意識的に荒れさせたり整えさせる力も一部では必要になるのだろうという話である(エネルギー効率としても、作画そのもののレベルアップのためにも)。


・漫画の喜びは、「ひとつひとつの完成が早い」こと。そのたびに喜びがある
今回、漫画を描いていて、「漫画は描けるけど一枚絵は苦手」という人の気持ちが何となくわかるような気がした。
漫画は、(もちろん全体としての完成はイラストよりも遅いが)「完成」が、かなり短いスパンで何回も生じることになる。これはひとつの喜びの形だ。何よりいろんなものを描けるし、それを短いスパンで次々に完成させていくのだから、これはなかなか気持ちのいい体験だ。
イラストはひとつのオブジェクトを仕上げるのにかなりの時間がかかる。これは絵柄にも寄るものなのかもしれないが、その絵自体がカラーで、かつ長時間注視されることを想定している以上、それなりの描き込みと精度が要求されるのであって、ある意味「我慢の時期」は長い。
とはいえ、私はこの描き込みの作業が割りと好きなので、推測するのみになってしまうのだが…。だが、白黒という特性上、描き込みにある程度の限界があり、その限界まで達する時間がカラーイラストに比べて短いのは幸か不幸かそれなりに喜びではある。


・セリフを間違えて枠の大きさを修正しなければならなかったことがあった
これは反省点になるのだが、2ページ目の作画中、セリフの埋め込みを予定する位置を取り違えており、セリフで埋まるべきスペースの想定が大きく狂うことになった。これにより、描き込んだ位置がセリフで隠れることになり、セリフに隠れるはずだったスペースが大きく白日にさらされることになり、大幅なタイムロスとモチベーションの低下を招いた。
このことの反省として、確実に、最初のラフの段階で文字を埋め込み、セリフ枠を確定させてしまうことが望まれると感じた。


・パースラインをどのタイミングで引くか
恐らく立体的な絵を描くのに、パースという概念は切っても切り離せないものがあり、特に漫画の背景作画において、このことは無視できない要素だと思う。私は、イラストを描くことについてより、このパースラインをどの時点で引くか、そしてどこまでこれに忠実にラインを引くかについてずっと考えてきた。

まず第一に、創造性の問題がある。これは私だけの問題かもしれないが、パースラインが引いてあると、そこから背景をイメージすることがどうしても、私にはできなかった。そして、パースラインをある程度考えずに描いたラフは、大抵パースラインに当てはめるとむちゃくちゃに破綻していたりして、私は何度も背景のラフを書きなおした。これを、ただでさえ時間のかかる漫画作画で再現したくはなかった。

まず私が考えたのは、もうあえて考えないということだった。というか、イラストはこれで結構やったりしていた。左右反転してそれなりに見える誤差であればそれでよしとし(人物をパースラインにあわせてまで描いている人はあまり見たことがない)、あとは描き込みで説得力を持たせることにした。私が思うに、パースラインからの誤差が、その作画のリアリティに大きく関わってくることは、あまりにひどい誤差でない限り、ない。それよりもテクスチャーやその他の質感表現によってリアリティは形成されるものであって、パースラインに対して適合しているかしていないかは、ある程度無視してもいいような気がしていた。むしろそれによって創造性の翼がもがれることが問題だと感じていた。

また、私は今回、背景の多くをExcelを使用して描画しているため、全体としてはずれていても、その要素ひとつとしては、ラインがずれることはないのである。前回書いた「全体よりも部分」の理論に基づいて、私は、Excelが産んでくれる、この「部分としての整合性」のみで、漫画では足りると判断した、のが1回目。

その後、私は少し考えなおした。ふっと、建物を描くにあたり、その構造がどうなっているかが気になったからだ。
そして適当に検索した結果、以下のページを見つけた。
このpdfが、全てを解決してくれた(このpdfは、普通にgoogleで検索したら、候補内にヒットしたものだ)。パースラインは、(建物については)全体のざっくりとした形状、直方体に近い形に対して引かれるべきなのだ。
思えば、私は建物がどのようにできあがっているか、上のファイルを見るまでは知らなかった。しかし、これで、私は建物が出来上がるまでの、「理論的な過程」を知ることができた。それは建物というものを単純化して考える上で、どこを「基点」とすればいいかの最適解を知ることができるものであったし、これから資料として見る建物を「理解」する上での、理論的なとっかかりになるものだ。言葉で表現することは難しいが、とりあえず柱が存在して、そこから梁が出現し、壁と発展していくのだ。本当に言葉で説明することが難しいが、この要素が、私に、建物というものの「内部からの理解」を可能にしたのである。

また、建物を背景として描画する上で、「接地面」がある場合は、それが見えない場合よりも、より高度に整合性が求められるような気がした。
なんというか、地面が見えなければ、割りと適当に描いてもそれっぽくなるような気がするが、地面とつながっているところも描画しないといけないとなると、整合性について真面目に考えないと違和感が生じるように感じたのだ。
でも、このことは、人物だけのイラストでも同じようなもんだと思った。二人以上同じ画面に配置しても、足が切れている構図では、地面との整合性はあまり気にならないが、地面まで晒される画面だと、そのあたりの調整に手間取るし、実際にプロの描いたものでも、地面まで描かれると説明がつくのか怪しいものもたまに見たりする。

また、ドア付近のイメージが、自分は乏しいなと感じた。割りと二階以降についてはパッと頭に浮かぶのだが、1階目が思いつかずにネットを徘徊することが、そういえば昔から多かった。ついでとばかりに、さきほどの「理解」を踏まえ、ビル等建物の1階についていろいろと資料を漁った。
結果、1階部分というのは、それなりに2階以上とは差別化されている(骨格から)場合が多いと感じた。また、装飾に関しても、人を招き入れるための工夫が凝らされている。それも当然であり、1階部分というのは、通常一人の人間の視野からしたら、100%目にはいる部分であり、逆に、2階以降の外側というものは、遠景等でないと、なかなかちゃんと見る機会はない。1階は2階以降と区別して考えられるべきなのだ。

また、頻出する「扉」の構造についてだが、まあこれも言ってしまえば当たり前のことだが、柱と梁に囲まれた壁の中に、更に扉を配置するために設けられた穴というか空洞が存在するわけであって、その空洞の周りには、支えである柱のようなものが存在しているはずである。当たり前ではあるが、このことを意識することで、説得力のある扉が、単純な線であっても、描けるような気がした。


・段取りは、ざっくりしたラフ、セリフの配置、枠線の配置、詳細なラフ、ペン入れ、トーンの順
上で書いたミスの話に関わってくるかと思うが、最初にセリフの枠については確実に確定させるべきだ。
そして更に、「詳細なラフ」の段階では、いや、最初のラフの段階から、人物と背景は同時にイメージし、描かれるべきだ。人物と背景、全てをひとつの空間としてイメージすることで、パース作業をある程度(常識的に)スポイルしている部分を、それなりに補うことができるのではないだろうか。

なお余談だが、既にパースにおいて、大きく破綻したと気づいたコマが結構ある……が、修正は特にしないことにしている。
コマの構図の時点で脳内で適応される「パース感」というものは、恐らくかなり感覚的なものであり、またそうあるべきであり、よって、それは経験的に取得する能力でしかない、つまり覆しようのない実力の反映にしかならないと感じたからである。これは恐らく、イラストを描く場合と同じである。イメージそのものである構図の決定について、計算的な要素であるパース感が影響する道筋を、脳内レベルでそれらの要素が結合している以外に、私には想像することができなかった。


・ラフは何段にするべきか
これについては、イラストのときからそれなりに体系化しようと思ってはいた要素だったが、漫画については、2段が望ましいと私の中で結論がついた。ただしこれは、ヌードデッサンを描かない場合であり、難しいポーズなど、ヌードデッサンが必要になる場合は、合計3段になる。なお、ラフの最終段は、常に、引かれる線が大体確定している状態になっているべきである。


・ベタ塗り
ベタ塗りを効果的に使うことは重要だと感じた。下手くそを露呈するが、なんだか描きにくいなと思ったところがベタ塗りをすべきところであった場合、結構ラッキーである。
また、あまり背景にベタを多用すると、見づらくなるような気がする。ベタは画面を重厚にするが、同時にコントラストを大きく上げ、記号的な絵面から絵画的な絵面へ移行させ、視認性を悪くする要素も持ち合わせていると感じた。

・線だけだと情報が錯綜する
トーンによって、現在引かれている線を、読む人の脳内でカテゴライズする作業を助けることは、視認性を大きく上げる。トーンは重要だと感じた。
また、これはまた下手くそを露呈する物言いだが、それなりに線を積み重ねると、それなりにうまく見えるような気がする。
また、とりあえず、背景等、ストーリーに絡まないオブジェクトについては、トーンやベタなどをあまり使用せず、「単に何かがあることを示す線の集合」の位置にとどめておこうと思った。しかし、プロの漫画を見ると、背景等には重厚にトーンやベタが貼られ、人物の記号的な表現に対して、どちらかというとリアル路線の表現がされていることが気にかかるので、これは描いていく中でまたどのようにするか考えようと思う。


・甘いモノがほしくなる
私はあまり間食をしないタイプで、また甘いモノがあまり得意ではないのだが、漫画を描き始めてから、無性に甘いモノを口にするようになった。慣れないことをしているからか、それとも漫画の作画がそもそもこれだけのエネルギーを要求するものなのかはわからないが、ともかく漫画を描くことは、私にとって大きなエネルギーを必要とするものなのだということを再確認した。



以上である。また来週もこの調子で行きたい。

2014年1月20日月曜日

GE2漫画描くぞプロジェクト・1週目〜イラスト専が漫画に挑むよ〜

漫画を書いている。

表題にもあるように、GE2の同人漫画(非エロ)である。
今度の夏コミで出すことを目標にしている。

こんなブログを書くことを思い立った理由を最初から説明すると、まず私は、趣味でイラストを描いており、その原点は、まあ何かを創作して発表することが好きだ、というところからきている。
そのイラストが、最近はどうも行き詰まって来て、何故だろうと自己分析したところ、やっぱり自分は文字ベースで、何かを認識し、思考し、外に出すことによって喜びを感じるタイプなんだなあと気づいたからだ。このブログなんて最たるものだ。というか、このブログは別に、自分に何か目標を課したりしてるわけでもないのに、それなりに細々と続いているあたり、やっぱりそれは正しいんじゃないかと思うのである。こんだけアホみたいに長文が多いのも、別に自分に縛りを入れているわけでもなくて、書き始めるとそれくらいの分量に自然となっていくのであって、まあどちらかというと、もっと平易に簡潔に書いた方が読む側には喜ばれるんだろうが、同時にそれも私にとっては難しいのである。

漫画は、元々書いてみたかった。だが、イラストから入った私にとって、漫画は未知の領域だった。そもそも、イラストはキャラ1体でも十分に完結する表現手段であって、そのくせ1枚描くのに6〜8時間くらい(キャラ1体がポーズをとっている一般的な萌えイラストであってもだ)かかってしまう。漫画は、その点、キャラが一言「あ」とでも喋ろうものなら、前述の認識を踏まえれば、その「あ」というセリフを表現するために、6〜8時間もの作業時間を求められるわけであって、そうなってくると、そのセリフの応酬とキャラの躍動をもってしてひとつの何かを表現しようなどと考えると、もうわけがわからないのである。というか、正直、6〜8時間もあれば、私であれば、それなりの規模の小説を1本書いてしまうことができる。

それなりに効率性を求める必要がどうしてもあると感じた。趣味に効率性を求めだすともうそれは別の何かであるような気がしたが、私という人間が通常に装備しているモチベーションと作業時間、そして最低限何かを表現するために必要な物語のスパンを考えると、そもそも1本の漫画を完結させるためにそれなりの効率性の探求は求められると思う。どのように簡略化するか(実際の作業も、そして思考レベルについても)。そしてもっと重要なのは、どのように段取りをして作業を進めるか。これを私は、実はずっと考えて来た。


そして、あくまで机上レベルでだが、それはついに私の中で、実際に漫画を描くことができるという結論に達するまでに煮詰まった。私は、私には漫画がかけると認識したのである。


ここに、計画表がある。

日付 ノルマページ数
1月19日 2
1月26日 5
2月2日 8
2月9日 11
2月16日 14
2月23日 17
3月2日 20
3月9日 23
3月16日 26
3月23日 29
1週間3ページのノルマを設定した。
最初の週が少ないのは、これを決めたのが、週の中頃だったからである。

そして現段階でなかなかヤバいなと思っているのは、19があけた現在、2ページ目がまだ途中という事実である。まあ、机上の計画とはいえ、ここまで作画に時間がかかるとは思ってもいなかった。というか、これでも結構効率化したつもりなのである。事前準備もそれなりにし、作業はスムーズに進んでいるはずだったのにも関わらず、だ。


更なる効率化を進めなければならない。そして、何か自分の進捗を監視するシステムが必要だ。
ということで、私はこのブログに、1週間に一度進捗と、作業をしていて気づいた、漫画作成のための効率化の断片をここに記すことにした。大丈夫、私はこうして文章でベラベラとまくしたてることが好きである。これはきっと、漫画を完成させる上で、有益なツールとなる。


早速、この土日での作業で気づいたことを下にまとめる。それぞれの項は非常に断片的であり、全体としての脈絡はほぼないが、許して欲しい。そして、もしこれが、これを読んでくださっているあなたの一助となれば、幸いである。私が思うに、イラストは描けるが、漫画は(描きたいのに)描けないという人は、一定の人数は存在しているはずなのだ。


・使用しているツール
使用するツールは、SAI、SAIFON、Excelである。SAIで基本的に作成し、SAIFONで文字を入れる。Excelは、背景作画等、直線が多い物体を描くときに使用する。何故これらのツールを用いたかについては、SAIについては、これが最も手になじみ、かつ、私がセルシス製のソフトとの相性がすこぶる悪いこと、またExcelについては、仕事柄よく使っているので、下手に新しいソフトを導入するよりも、これを利用したほうが良いと判断したからである。
なお、枠線もSAIで引く。別に引けると思う。具体的な説明が欲しいという方がおられたら、解説をしようと思う。


・プロットを作るとやりやすい
私は今回、作画作業の前に、プロットを作成した。これが、結構いいと(今の段階では)思っている。
プロットは、端的に言えばVIPSSみたいな文章である。セリフの応酬と、特に必要があれば、キャラクタの動作や環境についてのメモを入れる。1本の漫画で書けるストーリーはそれほど多くないので、そういう規模の話になるように意識した。私は元々小説を書いていたこともあり、この作業は1日、1〜2時間程度で終わった。

ラフは、これを利用して作った。最初に全てラフを描いてしまうのではなく、これから描く分だけを描き、すぐに作画作業に入った。
こうすることで、ラフの段階で、純粋に、全体の配置について気を配れた。心置きなく、1ページを一枚のページとして認識することができると思った。恐らくだが、このことはコマ割りにおいて、結構重要だと思う。


・意外とセリフで画面は隠れる(部分的な描画がメイン)
作画をしていて気づいたのは、意外と、セリフによって作画範囲がしぼられるな、ということだった。ここから考えられることは、1.最初に文字やセリフを入れてしまうべき ということと、2.全体のバランスを考える作業をある程度スポイルできる ということだ。
1.については、そうすることで、最初にセリフ等で作画が隠れる範囲が確定し、無駄な描画をしなくても良くなると思ったからだ。
また、2.についてだが、イラストの場合は、全身がくまなく画面上に発現するため、バランス(特に人体のそれ)には、かなり入念なチェックが必要だった。しかし、漫画の場合は、セリフの影響や、そもそも人体の一部分のみが描かれるコマが存在する。そして、そのようなコマを描くときは、全体のバランスチェックをスポイルして作業を進めていっていい。
そして、その作業時間は、細部の書き込みに費やされるべきだと思った。イラストの場合は、細部がある程度ラフであっても、全体のバランスが整っていれば、それも「味」になる場合もある。しかし、漫画の場合、そして、上記のような、オブジェクトの一部のみの描画になる場合、その細部がどれだけ書き込まれているかによって、見た目の「うまさ」は判断されるのではないかと考えた。だからきっと、漫画の場合は、全体のラフはそこそこで、必要となった細部の描画に多く神経を注ぐべきなのだ。


・キャラデザを暗記することは重要。なお、どのようにベタ処理するかについても覚えておくべき
キャラデザを頭の中に保存して作業することは重要だと思った。それも、保存するのはモノクロで描いたときのイメージである。ラフを引くときに、そのイメージをもって、直接引く(表現が難しいが)ことができるからである。資料をスタックし、ラフでは身体だけを描き、後から服を着せていくイラスト式の、基本とされている書き方では、正直遅すぎる。


・線画とベタ処理は同一レイヤー
これは絵柄にも関わってくるので一概には言えなさそうだが、こうするのが早いと思う。大体、線画を引いて、いちいち範囲選択をしているとそれだけで作業時間が倍加する。私は範囲選択作業が嫌いである。そして、それを前提に線画を描くことが更に我慢ならない。ベタ処理をペン入れと同時進行ですることによって、範囲選択処理の回数は半分以下になると思う。これは効率化を進める上ででかい。


・毛先の処理はわりと適当でいい
これは上記とかぶる部分があるかもしれない。髪、特に金髪等の、白色で表現すべき髪は、後で範囲選択して塗る必要がない。いや、トーンを貼りまくってクオリティを更に上げたいのであればそうすべきだろうが、私はしない。面倒くさい。そして、ある程度適当に毛先の処理をしたほうが躍動感がでる。これは、イラストを描いていたときに、漫画を読んでうらやましく思っていたポイントである。


・遠くの人物を描くのが辛い
この点が、補いきれない経験不足を感じたところだった。漫画を描く上で、バランスを考えなくてはならないのがロングで描く場合だが、キャラが画面を大きく縦断する場合には、迷いなく「イラスト式」でいったらいいかと思う。十分にバランスを吟味する意味があると思う。しかし、遠くにぽつんとそいつが立っているコマはどうだろう。正直、こんな小さな面積のためにバランスを吟味する作業などやってられないし、しかし、その作業を省いていることで、遠くのキャラの動きは、さながら地面に落ちたまま放置された人形のそれである。
シルエットでとらえる練習をすべきだと思った。バランスは、そもそも左右反転を繰り返し、吟味することでかろうじて整うものではなく、もっと感覚的に整っていくものなのだと思った。これについては、描きながら修行をしていこうと思う。


以上である。また来週にも同じことをする(はず)だと思うので、更新に期待していてください。

2014年1月13日月曜日

掛け算ってすごいよな

掛け算を考えた人はすごい、というよりも、こういう人の論理を構成する上で、基礎となる考え方を作りだし、それがまだ現代に生きているということそのものがすごいのだと感じる。

というのは、私が、何か発展的なものを作ろうと思ったら、常に掛け算的な思考を、人間は使わざるを得ないのではないかという考え方を持っているからだ。

古代の人間は、それこそ1とか0を考えだして、今の人間が物事を論理的に考える上での基礎を作った。
そういう基礎的な概念の発展の集合が、今の社会であり、人間の知能なんだと思う。

まあ、そんな中でも、今ことさらに強調したいのは、掛け算がいかにすごいものなのかということだ。

認知心理学的な知識の中に、「チャンク」というものがある。これは人が物事を記憶したりする上で、人間の脳というものは、個人差はあれど、最大8個くらいのものしか一度に覚えられないというものだ。
しかし、その「8個」という数字をどのように扱うかによって、記憶量は飛躍していくのである。つまり、8桁の数字をただ単純に覚えるよりも、それぞれ関連づけしたり、ゴロなんかに落とし込むことによって、それを「1個」として認識すれば、その8倍のものを一度に記憶することが可能なのである。

ここで挙げた話は正確には除算なのかもしれないが、しかし、この考え方、方向性こそが、重要だと思っている。


何か高度なものを作り出そうとするときに、いきなり細部から入っていくのはうまくないやり方だと思う。
例えば、絵を描くときは、漠然としたラフや、アタリから入ることが王道とされている。いきなり目を描き始めると、全体のバランスが崩れやすい。
文章を書くときは、最初に見出しを作ることが良い。いきなり書き始めると、終着点がぶれる。
プログラムを書くときなんかがまた顕著なんじゃないかと思う。いや、慣れている人は、何かを作ろうと思ったときに、自然とコードが頭に浮かんでくるのかもしれないが、私が仕事で簡単なExcelマクロを組むときは、まず処理の動きを箇条書きにし、処理の全体の流れを決めてから、細部のコード書きに取りかかっていく。

こうすることで何が良いかというと、色々あるが、下記の点が挙げられると思う。
・全体を気にするフェーズと細部を気にするフェーズが明確に分離するので、それぞれにおいて、能力を最大限、今の作業に集中させやすい。
・作業を計画性のあるものにしやすい。また、現在の進捗度を把握しやすい。


今、この世界にあるもののほとんどが、恐らく、人間の脳では一度に処理しきれないほど高度なものばかりだ。しかし、これらを作ったのは全て、人間である。人間は、ものを作成する上で、自分の脳で生み出した情報を記録や、整理することで、より高次元の概念を、この世に召喚することに成功した、と思う。


そして、この整理という段階で、現在人類が普遍的に使用しているのが、掛け算の概念だと思う。

考えてもみてほしい。何故この世にあるものは、そのほとんどが四角もしくはその集合体である直方体をしているのか? これこそが、人間が、物事を「掛け算」的に思考することで、より高次の処理能力を獲得した証拠ではないだろうか。

要するに、四角という形状は、X、Yという2つの数値で簡単に表せるのである。そして、さらにZを加えることで、空間が生まれる。たった3つの数値だけである。この三次元の概念を用いると、(少なくとも私たちが認識している世界の上では)全てのものの位置関係というものは、このX,Y,Zという数字から絶対に解放されることはない。これは、この三次元の概念が優れているというよりも、私たちが用いている、思考の最も基礎的な部分において、この認識方法が採用されているということだ。


掛け算の発明と、その広まり・伝達によって、私たちの祖先の知能の進化の方針が、強力に決定されたと言えるのではないだろうか。これはもはや、人間という種が持つひとつの特性である。



また、上記の話をふまえて、私が何を言いたいのかというと、であるならば、私たちが思考を「進化」、つまりまあ、難しい概念を理解したいだとか、仕事ができるようになりたいだとか、高度な作品やサービスを作りたいとか、そういった今までできなかった難しいことを考えたいと思ったとき、使うべきは掛け算の概念でしょうと。むしろこれしかないでしょうと。これしかないのなら、もうこれは確実な王道でしょうと。そういうことが言いたいわけです。


私は、物事を考えるときにエクセルにまとめますが、それが完成したとき、つまり、美しくエクセルの表にまとめられたとき、人はその物事を完全に理解したと言っていいと思います。もちろん、エクセルの表は何枚にもなる可能性があります。なぜなら、一枚の表は、AとBを掛け合わせた、平面に過ぎないからです。ここにC、Dといった数値を「掛け算」していくことで、さらに概念は立体感を増し、高度になっていきます。
エクセルの表に物事をまとめることは、どちらかというと除算と表現するのが的確かもしれませんが。まあ要するに、理解するときは除算、作り出すときは乗算と考えておけば、まず間違いないと思います。


結局、部屋の整理とかも、除算だと考えて間違いないと思います。そもそも整理とはなんですか。服を種別ごとに分けてタンスにしまうのは何故ですか。そうすることで、全ての服の位置を、いちいち頭で記憶しておく必要がないからではないのですか。書類をファイルに綴じてインデックスと見出しをつけるのは何故ですか。欲しい情報に対し、アクセスを容易にするためではないですか。


情報は、掛け算をすることで増やしていくべきだ。XやYといった一つの数値をあまり法外に多くすることは無益である。4に250を掛けて1000に至るよりも、4を5乗して1024に至るべきなのである。



このことを意識すると、何か強大な壁に自分が当たったときに、自分が取るべき行動、するべき考え方がおのずとわかってくるような気がする。乗算して思考することは、私たちが大空に飛び立つために得た翼のようなもので、乗算を積み重ねていけば、どんな高いところにも行けるはずなのである。


恐らく、乗算的な思考は、みんなどこかで無意識にやっている/やっていたのではないかと感じる。私は、これから、この思考を唯一無二の真実として、強く意識して生きていこうと思う。なぜなら、このことは、この世の中で生きていく上での、真理のひとつと言っても過言でないと思うからだ。

2014年1月5日日曜日

ピエロ

最近、別のアーティストやジャンルに浮気をして、あまりB'zを聞いていなかったが、今日何とはなしに、久々に聞いてみた。感想は、やはりB'zはいいものだと思った。心の支えになり得る。

今、ヘビーループで聞いているのはMONSTER収録の「ピエロ」だ。

桃色に染まる東雲…という、鮮やかかつどこか切なげな色彩から始まるこの曲は、1人の女性を奪って最高船速で「何か」から逃亡する歌だ。この疾走感と崩壊感が同居する感じは、今の私の心にしっくり落ちた。この手の楽曲は、他にパッと思いつくものとして「儚いダイヤモンド」や「なりふりかまわず抱きしめて」があったが(後者は性質としては再生に向かっていく歌詞だが、同じ、今にも壊れそうな「色」を感じた)、当初のこの「桃色」という色彩指定が、後に挙げた2曲との決定的なイメージを生み出しているような気がした。

そして、恐らくそれは、略奪愛というとんでもないことを「怪物に心をバリバリ食い散らかされて思わず」してしまった恐れ以上に、それをしてしまえたこと、できたことへの興奮、そしてこの後への希望、そういったプラスの感情が、歌詞に封入されているからだと思う。

だが、またしかし、そこに「ピエロ」というタイトルを持ってきたこと、そして「ひたむきで滑稽な逃亡者」「涙は流さないでおくれ」と、悲しむべき自分の姿を同時に歌詞に映していることが、そこに更に立体性を加えている。これは稲葉さんの歌詞の特徴だと思うが、こういうことを書かずにはいられないところがたまらなく大好きだ。

この曲の主人公は、自分の中の理性と、自分の中に眠る「怪物」と、必死に戦いながら毎日を生きているように思える。そんな想像が、自分の心と強くリンクし、今日は、この曲について感想を書くに至った。