2014年2月24日月曜日

要素を分けて考える思考について

往々にして思うのは、人は何かを思考するとき、要素ごとに細分化して思考することがあるなーということで、これこそが人間が、公平性を持って何かの物事を見ることができる数少ない方法のひとつだと最近思うようになった。

ここしばらくでいろいろと、小さいながらも出来事があった。

まずひとつは、自身の周囲でなされている評価と、それに対しての立ち回り、そしてその立ち回りへの論理性を脳で自動的に折衷して、本人もその自覚がないかのような自意識に遭遇したこと、そしてとある人が、創作者の、創作物に評価を受けることと、その人の人格への評価をごっちゃにしている要素を痛烈に指摘していたことだった。

人間というのは最終的には一つの個体に帰結するが、その帰結する前の要素については多くのものがあると思う。例えばそれが好きか嫌いかとか、正義か悪かとか、社会上の通念に即しているかとか、色々あると思うし、最終的に人間がひとつの行動をすることになったとして、それを理解し人と人とが付き合うためには数多くの要素についてそれぞれ考察し分析し自分なりの答えを出すことが、成熟した大人の付き合い方なのではないかと考える。

自分などまだ子供だと思ってしまう自分がいる。何せ少し前(自分の感覚の中では)までは子供だったのだから、そのときの意識を今も引きずっている。当時触れていた作品やものは、今でも懐かしいと思うし、当時感じていたことが延々と思い出される。

まあそれはさておくとして、思考するにあたって、物事の要素を細分化してそれぞれ考えていく動きは、とてもエネルギーがいるものだな、ということが最終的には言いたかった。私など、大体が直感を信じて生きているし、直感なんてものは、自分が自分の意識の中ですべき分析行動を脳みそに丸投げしている状態なので、悪く言えばかなり無責任な思考と考えることもできると思う。

例えばAさんが嫌い、と直感で思ったとして、しかし何故その人が嫌いなのかと考えたとき、それはひとつの要素が決め手になっていることが多いのではないかと思う。それはまあ以前に受けた恥ずかしめとか、口臭が我慢ならないとか、基本的な行動理念とか、色々あるだろう。ただ、それが、社会的な要素によってそう「考えさせられている」場合もあると、私は思う。それはいじめを発現させるひとつの要素である。

人は大人になって、社会性を身につける。当然守るべきマナーは当然のように守られていくし、そのように成長し、やがて社会を構成するひとりとなる。社会性とは、たくさんの人とつながっていくこととそう変わらないと思う。そしてその中で、社会性を踏まえた立ち回りを自然と習得していく。習得できない者は疎外される。

近づいてはいけない人間というものが生まれる。それは疎外された人間であり、危険因子である。危険因子は、「当然守るべきマナー」の中で、「とってはいけない思考」をする人間である。そういった人間に生理的嫌悪感を抱くようになったとき、人は大人になるのかもしれないと思った。これが、今日言いたかった大枠のひとつ。


もうひとつは……先ほども少し出したが、自分が残した業績、作品と、その大本となった人間の人格についてだ。自分が何か大きなことをしたということ、もしくはすばらしい作品を生み出したこと、その評価に対して、自分の人格が優れていると誤認し、人格者として振る舞うことは、(これはある人の意見の引用を含んでいるが)かなり滑稽だ。押し付けがましい。何か強大な力に操られる手先のようで、ぺらぺらだ。そして、自分もそうなりそうで怖い。

ここまで書いて、まだこのことは私の頭の中でよく整理されておらず、文章に落とし込むの尚早だと思い始めた。ただここから思うのは、物事をひとつひとつ細分化してそれぞれ評価する思考は、確実に人を死に近づけるということだった。分析しすぎる思考には、何だか荒廃した世界に吹くような乾いた風を感じた。人生は何も面白くないのだと悟ってしまいそうだ。

あまり考えをめぐらすことは辞めた方がいいのかもしれない。私は、よくアニメを見る人たちが言っている、「何も考えずに見られるものが良い」という言葉の意味が、段々理解できるような気になって来た。頭を空っぽにする瞬間は必要だ。人生は夢幻のごとくなり。冷静に考えて、何も楽しいことなどない。常に冷静に考えていては、生きてはいけない。